「岸辺のない海 石原吉郎ノート」 郷原宏

石原吉郎の著作は『望郷と海』を読んだだけで、詩集は読んでも理解できないだろうと思い手を出していなかった。石原吉郎の詩を理解する手助けになるかと思い本書を読んでみたが、余計に詩を理解する困難さを感じてしまった。詩を理解するとは?と考えると堂々巡りに陥り、詩に限らず理解するとはどういううことなのかという難問に直面する。専門家が評価しているので、良い詩なんだろうなあと思うが。

石原吉郎はシベリアに8年間抑留された後帰国する。シベリア強制収容所の生活では、バム鉄道建設のための森林伐採労働に従事した1年間が「最悪の1年」だった。最近、管理人は旧深名線沿線の街を訪れているが、道路脇にいくつか慰霊碑というか記念碑があった。過酷な鉄道建設やダム工事で亡くなった囚人や朝鮮半島から連れてこられた人たちを慰霊するものだった。北海道でも大変な山間部の鉄道建設をシベリアで行うのは想像を絶するものだったろう。バム鉄道建設では「枕木一本に死者一人」と言われるほどの犠牲者が出た。極寒の朝、ひとりのルーマニア人が切り倒された木の下敷きになって死んだ。死体は夕方まで現場に放置され、夕方営倉に投げ込まれた。石原吉郎は夜間使役を終えた後、営倉に立ち寄って死体を見たら、上半身と下半身が逆向きにねじ切れているのを目撃する。石原はまっしぐらにバラックへ逃げ帰った。<<「あれが本当の死体だ」という悲鳴のようなものが、バラックの戸口まで、私の背なかにぴったりついてきた>>

帰国後の石原は詩の同人誌で青春を取り戻す。当初、シベリア抑留について「沈黙」していたが、徐々にシベリアをモチーフにした(と思われる)詩を発表する。昭和31年に石原吉郎は結婚する。昭和42年に「ノート」と「肉親へあてた手紙」が同人誌『ノッポとチビ』に掲載される。手紙は弟と義絶する内容で、石原夫人の精神的変調に拍車がかかったという。こうしたなかで石原吉郎はシベリア関連のエッセイを発表する。シベリア・エッセイは評判となり、石原吉郎は「思想詩人」として脚光を浴びる。管理人が知っている石原吉郎のイメージはこの頃のものだった。石原夫人は心身の不調から入退院を繰り返し、石原自身はアルコール依存症による奇行が目立つようになる。昭和52年11月15日石原吉郎は浴槽のなかで死んでいるのを発見される。62歳だった。

 昭和五十二年(一九七七)十一月十三日夜、石原は親しい女性詩人に電話をかけ、「明日、外出の予定があるので朝九時に起こしてください」と頼んだ。翌朝、彼女がその時刻に電話すると、石原は「外出するのはやめました。これから風呂に入って休みます」といった。その後、石原と親しいもうひとりの女性詩人が電話をしたが、何度かけても応答がなかった。不審に思った彼女が十五日午後一時ごろ団地を訪ねると、石原は浴槽のなかで死んでいた。警察の検死の結果、酒を飲んで入浴し、急性心不全をおこしたものと診断された。死亡推定時刻は最初十三日夜八時ごろと発表されたが、のちに十四日午前十時ごろと訂正された。形のうえでは病死だったが、それは自ずから招き寄せた死だった。
 岸辺のない海を漂いつづけた「シベリアの詩人」は、こうしてようやく向こう側の岸に流れついた。三日前に六十二回目の誕生日を迎えたばかりだった。

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