「日本語を、取り戻す。」 小田嶋隆

本書は安倍政権がらみのコラムが多い。安倍首相や官僚の何を言っているのかよくわからない国会答弁や官房長官が何を聞かれても理由も説明もなく「批判は当たらない」「問題ない」と記者の質問に答える。不思議なのは政治部記者がそのことについて追及することがないことだ。マスメディアの記者はせいぜい漢字の読み違いや線香やらメロンやらを国会議員が地元の支援者に配ったことなど揚げ足取り的記事で追及したポーズを取る。モリカケ問題、いっこうに説明がない甘利大臣や下村大臣の政治資金関連の疑惑等々突っ込みどころは沢山あるのに暫くすると何もなかったかのようなことになる。

本書の最後の章は「がんばれ、記者諸君。」でメディアに対して叱咤激励というか挑発している。日本のメディアが政権にたいして「忖度」してばかりで、政権にとっての不都合にはだんまりを決め込む。メディアが本来持っているはずの権力の監視という役割を実質的に放棄している。本書を読んでいると著者はTVに対してすでに諦めているのかもしれない。だから、日本語で記事を書く記者達には僅かな希望を託しているように思える。だからこそ、「日本語を、取り戻す。」という書名を選んだのかもしれない。著者がコラムでマスメディアを批判しても、そこは多勢に無勢で、メディアが劇的に変わることはないだろう。政権批判の時事ネタコラムを書くのは「労多くして功少なし」の仕事だ。それでもライターの性なのか、著者は毎日Twitterでツィートし、コラムを書き続けている。

 言葉が言葉としての本来の意味を喪失しているからこそ、われわれは、その「真意」を「忖度」して職務権限の遂行に協力したり、その「揚げ足を取る」ことで責任を追及せねばならなくなっている。
 言葉は、固有の意味を持っている。普通はそういうことになっている。
 ところが、うちの国の組織の中では、言葉はしかるべき「文脈」に照らし合わせないと意味を発揮することができない。
 だからこそ、現場の人間は、「言葉」でしくじる。
 というのも、「言葉」は「責任」を伴っているからで、その扱いを誤った人間は、当然のことながら、「言葉」に殉じなければならないからだ。
 一方、権力者は、直接には「言葉」を発しない。
 なぜかといえば、腐敗した社会の権力者は「権限」は行使しても「責任」は取らないからで、そのためには「言葉」を介さない暗黙の示唆に徹することが一番安全だからだ。

関連記事