「ジョージ・オーウェル」 川端康雄

ジョージ・オーウェルの評伝を読むのは、B・クリック著『ジョージ・オーウェル ひとつの生き方』以来30数年振りになる。管理人がジョージ・オーウェルの著作を読んだの学生の頃で、英語の勉強も兼ねてペンギンブックスで読んでいた。今では洋書を読むということは全くなくなったけれども。『1984』はニュースピークがよくわからず途中から翻訳を読んだ記憶がある。リーガ・エスパニョーラを見るようになったとき、縁もゆかりもないバルセロナを応援するようになったのは『カタロニア賛歌』のおかげだ。

ジョージ・オーウェルは1903年英領インド、ベンガルのモティハリで生まれる。翌年母親とともに帰英する。父親は単身でインドに残る。パブリック・スクールのウェリントン校に入学するがすぐ退学して、イートン校に奨学生として入学する。この時の経験が後のオーウェルに影響を与える。イートン校を卒業した後、大学へ進学せず英領インド警察官としてビルマへ出向する。大学へ進学しなかったのは、奨学生となるには成績が思わしくなく、経済的理由で一般入学が難しかった。それとオーウェル自身が大学進学を余り望んでいなかった。

1927年警察官を辞職し帰国する。帰国したオーウェルは定職につかず作家を目指すことになる。ロンドンとパリで浮浪生活を送る。1933年ジョージ・オーウェルという筆名で『パリ・ロンドン放浪記』を出版する。1936年アイリーン・オショーネシーと結婚する。まだオーウェルは作家としての収入が少なく、アイリーンはオーウェルの母親から「これからどんなにたいへんな目にあうかご存知なら、あなたは勇敢な娘さんだわ」と言われた。1937年スペイン内戦において、共和国政府側のPOUMの民兵部隊に参加する。ウェスカの前線でフランコ軍の狙撃兵に撃たれる。銃弾は首を貫通し重傷を負う。その後、スペインを脱出する。翌年『カタロニア賛歌』出版する。

1941年にオーウェルはBBC東洋部インド課に入局する。インドと東南アジア向けのニュース解説を放送する。その放送をジャワ島で連合国の情報を収集していた鶴見俊輔さんが聴いていたという。1943年BBCを退職し、『トリビューン』紙の文芸担当編集長につく。オーウェルは多くのコラム、書評、エッセイを執筆した。その中で『動物農場』を執筆したが、出版社が見つからなかった。『動物農場』は寓話になっているが、スターリン体制のソ連を批判したものだった。当時ソ連はイギリスにとって同盟国であり、まだ共産主義に対する希望があったため、反ソビエト的なものを出版することは殆ど不可能だった。

1945年妻アイリーンが亡くなる。第二次世界大戦が終わり、『動物農場』は出版された。第二次世界大戦後の冷戦時代、オーウェルの思いとは裏腹に「反ソ・反共」の宣伝のために『動物農場』は利用された。1947年オーウェルは喀血し肺結核であることがわかる。7ヶ月間入院した後、退院する。この間、『1984』の推敲を終えたが、オーウェルは離島に住んでいるためタイピストが見つからず、自分でタイプを打ち原稿を完成させた。1949年『1984』が刊行される。1950年1月21日オーウェルは肺結核のため亡くなる。オーウェル自身、『1984』がその後どのような運命を辿るかは知らずに亡くなった。『動物農場』や『1984』を「反ソ・反共」の宣伝の道具に使う人びとは自分自身も批判の対象になっていることに気づいていない。多分、そのような人びとはまともに『動物農場』・『1984』を読んでいないのだろう。

オーウェルが英国情報調査局に協力し、「プロパガンダ要員として信用してはならない人」38名の隠れ共産党員・同調者リストを提出したと1996年7月『ガーディアン』にスクープ記事として載った。オーウェルらしからぬ行為として論争が起こった。そのリストのなかには実際KGBに雇われたスパイがいたが、そのことがわかるのはソ連崩壊後だった。アメリカの赤狩りのように、オーウェルが作成したリストで、公職を追放されたひとはおらず、あくまで「プロパガンダ要員として信用してはならない人」だけだったようだ。

 すべてではないにせよ、オーウェルの著作の原動力に怒りがあった。見たように、『カタロニア賛歌』はスペインで同志らが不当に弾圧された事実に怒ったからこそ書いたのだと本人は語っていた。他の著作でも許しがたいものへの怒りの強度は並大抵ではない。帝国主義、階級差別、弱者への抑圧、為政者や知識人の不誠実な言動、体制順応主義、権力者への忖度、阿諛追従、(自己)検閲、人間の精神を狭めようとするあらゆる「正統的教義」-怒らずにはいられないものがたしかに多くあった。
 そうであっても怒りだけでは彼の著作がこれほど長く読み継がれることはなかっただろう。ディケンズの顔について述べたようにオーウェル自身も「寛大さをもって怒っている」顔をもっている。『カタロニア賛歌』にしても、粛清の陰鬱な雰囲気を描き、弾圧を怒る一方で、「革命的雰囲気」に満ちていたバルセロナ、そして民兵部隊に属しての前線での従軍の記録には、笑いをともなう独特な明るさがある。私が大昔これを初めて読んだとき、怒りの告発文と併存するこうした明るさに強く心を打たれ、これは何に由来するのであろうかという問いを持った、それがこの作家に深入りするきっかけであったとさえ言える。彼が独特な思いを込めて「ディーセンシー」と呼ぶ、ふつうの人びとがもつ「人間らしさ」への信がある。希望がある。明るさはそこに由来するというのが私の見方である。

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