「わかりやすさの罪」 武田砂鉄

本にしてもTVにしても映画にしても写真にしても「わかりやすい」ということがこれだけ求められるのは最近のことだ。とにかく、手っ取り早く結論をということが主流になっている。アマゾンのレビューにも「もっとわかりやすく」と書いているひとが多い。なぜ「わかりやすさ」ばかりが求められるのか。インターネットとSNSの広く使われるようになってからこの傾向が強い。twitterは文字制限があるためか、議論が短絡的になり、それなりの論理的な思考もなしに「はい論破www」となることが多い。時間をかけずに雑な議論で結論を急ぎ断定をするひとのほうがSNS上では受けが良い。

「良書」を3000字程度のダイジェストで紹介するサービスや本を読まずに参加できる読書会の存在を本書を読んで初めて知った。「良書」の基準が分からないし、3000字程度のダイジェストでその本について理解したことになるのか。理解したのはそのサービスを提供したほうではないか。部分しか読まない読書で深く理解できるのかと突っ込みどころが多い。しかしながら、これらのサービスで満足している人たちが少なからずいるというのが驚きだ。管理人のような古い人間には理解し難い。相手の著作を全く読まずに批判する評論家は昔からいたが、読書のような個人的な経験を他人任せにするのはどうなのだろう。本をよんだ後に様々な意見を交換するというのなら理解できる。現代では本をじっくり読むというようなひとは少数派なのだろう。「言葉美人」という言葉も嫌な感じがした。

現代の「わかりやすい」とはいかに時短して成果を上げるかという経済的理由から求められている。それは雑な議論、雑な思考とセットになっている。忙しくなければ経済が回らない。じっくり立ち止まって考えていたら乗り遅れる。コロナがあろうと”Go To トラベル”で経済を回さないと広告代理店も旅行業者も大変なことになる。スピ-ドを求めすぎて準備が整わず現場が混乱してもいちばん上の人は夏休み状態。このままでは元の木阿弥になりそうだ。立ち止まって考え直すことができないので進めるだけだろう。引きこもるしかないな。

 いちいちしっかり考えることを放棄してはいけない。それを人に言うと、あるいは、こうして書き記すと、たちまち説教っぽくなる。わかっているよそんなこと、と返される。でも、それを言わないと、「雑」がはびこってしまう。雑でいいいんだよ、言いたいこと言っちゃえばいいんだよ、と公権力が率先してバラまいていく。これも表現の自由だろう、なんて嗤いながら。本稿のテーマである「わかりやすいこと」と「雑に考えること」って相反するようなに思えるけれど、この2つは時に共犯関係になる。雑に考える土壌が整えば整うほど、その中で、強い意見、味付けの濃い意見がはびこる。雑にしていくことで培養されていくわかりやすさは、積重ねられた議論を一気に無効化させる。今回の「表現の不自由展・その後」の中止は、その典型例になってしまった。河村市長・松井市長の発言が事細かに論証されることなく、わかりやすい主張として通過する。これぞ、「雑」の危うさである。そもそも議論のテーブルに乗っけてはいけないものが乗っかったことを繰り返し問題視しなければいけないのに、それをするメディアは極めて少なかった。いつのまにか彼らの戯言が、主張として育っていった。「雑」が「わかりやすさ」を生み、「わかりやすさ」が「雑」を生む、この仲睦まじさから、表現の自由を公権力が制限するという極めて悪しき例が生まれてしまった。「わざと雑にする」、これは今の公権力が見定めるにあたり、強く意識しておかなければならない態度だ。

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