「大衆の反逆」 オルテガ・イ・ガセット

「大衆の反逆」を学生の頃読んで、人口増加による大衆出現がヨーロッパの没落を促しているという大雑把な感想しか覚えていない。戦間期ヨーロッパに漂う危機感を背景にして、スペイン内戦のためフランスへの亡命を余儀なくされたオルテが母国スペインの新聞に書き上げたのが本書である。今回の岩波文庫版「大衆の反逆」はこれまで訳されていなかった「フランス人のためのプロローグ」と「イギリス人のためのエピローグ」が追加されている。

訳者の佐々木孝さんは妻の介護のため東京から故郷南相馬市へ移住し、東日本大震災に被災した後もそのまま住み続けて訳稿を完成させた。福島第一原発から約25kmのところにある自宅に住み続けたのは認知症の妻のためだった。翻訳が完成したのは2018年12月15日で、佐々木さんが肺がん治療のため入院する直前だった。佐々木さんはその5日後に亡くなる。訳稿は佐々木さんのご子息に託され、佐々木さんの読者を通じて、岩波書店へ持ち込まれた。「訳者あとがきに代えて」においてご子息はつぎのように述べている。

 その仕事の中心が『大衆の反逆』の新訳でした。自らの師の神吉敬三先生を含む偉大な先達による既訳がいくつもある中で、父はこの名著を新訳で世に問う必要性を強くかんじていました。内外を問わず、ともすればこの作品が曲解、あるいは拡大解釈されてきた傾向に一石を投じたい。オルテガがこの作品に込めたものは何だったのか。大衆、すなわち私たち一人ひとりが覚醒し、慎み深い自己沈潜において新たにまっとうに歩み始めること、それがオルテガの祈りだったのではないか。『ドン・キホーテをめぐる思索』『ガリレオをめぐって』『ヴィルヘルム・ディルタイと生の理念』『個人と社会』『哲学の起源』など、オルテガの他の作品の翻訳を多く手掛けてきた父はそう捉えていたようです。オルテガの真意について思索をめぐらせながら、常に自らの半径三メートル内にいる母を見守り、介護する傍ら、父はこの作品の翻訳を進めました。

「大衆の反逆」で論じられている対象はヨーロッパ(アメリカを含む)であり、アジアやアフリカは含まれていない。中国や日本は人口密度が高いので挨拶が細かく発達したというようなことがちょっとだけ触れられている。アジア蔑視とも受けとられないが、オルテガにとって問題はヨーロッパだった。20世紀のヨーロッパでは、文明の建設に一向に寄与せずまた新しい文明を築こうとはせず、ただ今ある文明の恩恵を享受し消費するだけの大衆が増加し、その大衆が新たな国家の主権者となっている。そして大衆化した人間はいかなるモラルにも服従せずに生きたいと願う。あらゆる権利を持っているが義務は一つも持っていないと考える人が増えている。今の危機は大衆が「本質的に何ものかに対する恭順の念や奉仕と義務の意識であるモラル」を持っていないことだ。このようなオルテガの主張は、大衆蔑視につながりやすく、独裁制と親和性を持つように思われる。生前訳者は「オルテガが右翼思想に利用されやすい側面があったが、それは悪く言えば曲解、良く言っても部分的な拡大解釈」とブログに書いていた。本書を読んで、大衆の自覚を促す試論と受けとるひとは少ないように管理人には思えるが。

 本試論で、ある種のヨーロッパ人のタイプについて何かと素描しようと思ったのは、主に自分がその中に生まれてきた文明そのものに対する態度を分析することによってである。このようにせざるを得なかったのは、その人物たちが古い文明と闘う別の新しい文明を代表しているからではなく、単なる否定つまり実際は寄生状態を秘めた否定を是として代表しているからである。大衆化した人間はまさに自分が否定しているもの、他人が建設し積み重ねたものを糧に生きている。だから彼の心理構図と、近代ヨーロッパ文化がどのような根本的欠陥を持っているかという大問題とを混同すべきではなかった。要するに、いまや支配的なこの人間形式がそうした根本的な欠陥に由来することは明かだからである。

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