「沖縄文化論」 岡本太郎

本の話

岡本太郎の本を読み続けるのも本書でひとまず終了。管理人の岡本太郎に対する印象も変わった。「岡本太郎の見た日本」がきっかけで岡本太郎の紀行文を読むことになったが、「岡本太郎の見た日本」を読まなければ岡本太郎の印象はいつまでも「芸術は爆発だ」の変なおじさんだったかもしれない。

「沖縄文化論」は「芸術風土記」とは異なり、落ち着いた文章が多い。その理由が場所が本土復帰前の沖縄のためなのかどうかはわからない。本書のなかでいちばん印象に残ったのが久高島に関するもの。「イザイホー」を取材するため、7年ぶりに久高島を再訪した文章も増補として収められている。

この再訪時、岡本太郎は禁制だった風葬の場所である後生に入り写真を撮影し発表した。岡本太郎は新聞記者と同行し、撮影許可をもらっていたらしいのだが後に問題となる。「大御嶽」や「イザイホー」も余所者が入り込めない宗教的儀式や場所であったが、記録として残さなければ、それらが在ったことさえ消滅してしまうほど沖縄独自の文化は衰退していたという。記録の対象が記録するものによって破壊される危険性は大きい。岡本太郎の写真が発表されると後生には大勢のひとが無許可で押しかけたそうだ。

 西海岸一帯に繁茂する阿檀林の中。この一部は後生とよばれ、よそものは入ることができない。禁止の場所である。トゲのあるバサバサした細長い葉が密生し、強風にたえてよじれ、曲り、からみあった幹、たれさがった気根の間のうす明るい地面に、無数の死がさらされている。はるか暗闇の祖先から、ここに死体は遺棄され、埋もれ、積み重ねられてきた。風葬-いまはこの島だけに残っている沖縄の古い習慣である。
久高島にはおびただしい死と、ささやかな生の営みが、透明な比重の層となって無言のうちにしりぞけあっている。生はひっそりと死にかこまれ、死が生きているのか、生が死んでいるのか。生と死のいずれが実在なのか、ふと錯覚する。映画のスクリーンに、瞬間にネガとポジが交錯して映し出されるとき、奇怪な実体が浮きだしてくる。そのセンセーションだ。
しかしあたりは限りなく明るい光の世界。清潔だ。天地根元時代のみずみずしい清らかさ、けがれなさはこのようではなかったか。久高島の印象は今度の旅行でも、私にとって最も神秘的であり、その気韻はまだ私のからだの中に響きつづけているのである。

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