「日本再発見 芸術風土記」 岡本太郎

本の話

本書は、「神秘日本」などに比べると随分文章がわかりやすく面白い。写真も多数収録されている。解説によると、岡本太郎の著作は、秘書であった養女の岡本敏子との共同執筆であったらしい。管理人が見たTVドラマ「TAROの塔」では岡本太郎が話している言葉を岡本敏子が書き留めている場面があったように記憶している。本書を読むと全国各地を旅し、写真を撮影し、展覧会の制作や講演も行い、行く先々で「おもてなし」を受けて、執筆する時間がよくあったなと思った。

秋田、岩手、京都、大阪、出雲、四国、長崎と旅をして、岡本太郎が本領発揮するは京都。岡本太郎は「伝統芸術の会」に誘いを受けて参加する。その日のテーマが「お茶」で、利休ゆかりの大徳寺に京都の知識人が集まった。討論に入り意見を求められた岡本太郎が持論を述べると、居合わせた大学教授が高飛車な調子で「お茶などというようなものは、その道に十年精進してみなければ解るものではありません。ちょっとのぞいたくらいで、不キンシンなことを言うべきではないと思う」と言った。これに対して岡本太郎は反論する。

 批判だってシンラバンショウあらゆることに向けられる。それは人間の情熱だ。しかしいまのデンでいったら、身体が何万あったって足りやしない。つまり何ごともすべきじゃない、言うべきじゃないってことになる。しかも、一つことだけで十年くい下っている間に、すべての現実は進んでしまう。それじゃ世の中に追いつけっこない。ならもういっそのことすべて諦めて、墓石の下にでももぐり込んじゃった方がいい。-こんなことをくどくいったのは、芸道社会に限らず、とかくこういう人たちは他愛のないエセ論理で素人をオドカシ、芸術の問題をそらしてしまうからだ。
私は決してそうは思わない。まったくの素人がお茶について発言しなきゃいけないのだ。なまじその道に苦労した目は、あぶない。知らずにゆがんで、平気でにぶってる。素人が素直に直観で見ぬくものが、案外本質であり、尊い。お茶が芸術であるならば、そのような素人を相手としてこそ、新鮮に生かされて行くんであって、こんな会をやる意味もないじゃないか-

この後、大学教授は退席してしまう。そのうち、一人の茶羽織を着た青年が「しかし、議論や、対立というようなことは、やはりこういうお席では、慎しむべきじゃないでしょうか」と言ったそうだ。その他の土地でも、岡本太郎は歯に衣着せぬ批評で地元の人たちを煙にまいたような感じがする。次は「沖縄文化論」を読む予定。

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