「神秘日本」 岡本太郎

本の話

「岡本太郎の見た日本」を読んで岡本太郎の本を読もうと思い書店へ行き「岡本太郎の本3」を購入。「神秘日本」と「沖縄文化論」が収録されていると思ったが、「沖縄文化論」のほうは単行本の抜粋だった。しかたがないので「沖縄文化論」は文庫で買うことにした。「神秘日本」・「沖縄文化論」・「日本再発見」が文庫にあったとは迂闊だった。

実際に岡本太郎の文章を読むと、「芸術は爆発だ」のイメージはなく、哲学者というか思想家という感じがする。今思えば、CMに登場した岡本太郎は何だったのだろう。岡本太郎が大衆のイメージする太郎自身を演じていたのだろうか。「神秘日本」は今でいうと「日本のパワースポット」を訪れる紀行記。恐山、出羽三山、熊野、高野山と名だたる「パワースポット」が登場する。といっても「神秘」という意味は、超常現象が起きるような意味合いはなく、土着のエネルギーないしは文化を意味する。岡本太郎は美術化した仏像、画や建物には興味を示さない。その土地にあるそのままのものに強く惹かれる。美術や芸術を突き抜けたものを岡本太郎は求めている。

 己れが他にまったく受け入れられたすれば、とたんに、己れは他の中に解消してしまう。一部だけ理解されて、他がのこる、ということはあり得ない。オール・オア・ナッシングだ。しかし芸術は、オールであると同時にまたナッシングだという、不思議である。
受け入れられなければならない、と同時に絶対に受け入れさしてはいけないのだ。その矛盾した強力な意志が、それぞれの方向に働く。よく私が芸術は好かれてはいけない、と象徴的にいうのは、まったくその意味なのだ。いわゆる絵描きさんの絵は、あらわしっぱなしだ。分かって下さい、好いて下さい、-その芸はなかなか細かいが。そしてそうしたものに一般が溺れている。
不潔の極みだ。優れた芸術には永遠にフレッシュな感動がある。それは永遠に己れをわたさないからだ。その拒否、秘密がなければ、純粋ではあり得ない。秘密即純粋なのだ。つまりそれは見せていると同時に見せないことなのである。
絶対の虚無に徹し、そこから有に転じようとする。卑しい修行、芸、生業ではなく、無条件の象徴的ジェスチュア。ただ、さし示すこと。
激しい呪術をこめて、「これだ」と言わなければいけない。それによって、猛烈なエネルギーがふき出し、そこに絵でも、音楽でも、哲学でも、宗教でもない、絶対の何かがあらわれるのである。
いま私をとり巻き包んでいる色・形・音。その果てしない饒舌の、虚と実の重なりあった層。渾沌をとおして、ただ一つ、私の心の中に強烈な実感として浮かびあがってくる-それは、なかながとさし示した一本の腕である。

新着記事

TOP