「炭鉱に生きる」 山本作兵衛

本の話

「山本作兵衛」という名前を知ったのは「横浜トリエンナーレ2011」のとき。トリエンナーレの会場だった黄金町をぶらぶらしていたら炭鉱画を紹介しているところがあった。当時、炭鉱には興味がなかったので何も見ずに素通りしてしまった。まさか後から炭鉱跡を撮影するようになるとは思ってもみなかった。本書は初版が1967年で、山本作兵衛さんの炭鉱に関する画文が世界記憶遺産に登録されたため、2011年に復刻された。本書は画文集で、文章よりも炭鉱画のページのほうが多い。新装版には著名人の書評やエッセイが収録されている。著名人による権威付けなどはもっとも著者にふさわしくないのではないかと思う。といっても新装版が出版されたときはすでに著者が亡くなられており、著者はあずかり知りようがないのだが。

著者が炭鉱画を描くようになるのは、1958年から閉山した炭鉱の夜警として働きだしたときからだった。明治・大正・昭和初期の炭鉱の記録が殆ど無く、「炭鉱(ヤマ)を知らない孫たち」のために書き残そうと著者は思った。

 もともとが自分の子孫に描き残しておこうと思ってはじめたことですから、他人に見せようなどとは夢にも想像せず、また見せられるようなしろものでもありません。貧乏に生まれて知恵もなく、一生をようするに社会の場ふさぎとして過ごしてきた一人の老坑夫のまずしい記録にすぎません。したがって、ただひたすら正確にありのままを記すことのみを心掛け、それ以外のことは考える余裕もありませんでした。これから五十年、あるいは百年の後、孫やその孫たちが、こんなみじめな生活もあったのか、と心から思えるような社会であってほしい。それだけがせめてもの願いであります。

北海道にある郷土資料館や博物館にある炭鉱関連の資料は第二次世界大戦後のものが多く、採炭夫が褌一丁で鶴嘴を使って手掘りという姿を管理人は見たことがない。明治・大正・昭和初期の炭鉱記録があまりないのは、「不都合な真実」があるためかもしれない。炭鉱画には様々な炭鉱の姿が描かれている。過酷な労働なため炭鉱から逃走するものが多いが逃げ切れるものは少なく、捕まった坑夫はリンチを受ける。女性坑夫が上半身裸で働いており、幼い子供も手伝いをする。三宅集治監からの囚人、戦争捕虜、中国や朝鮮半島からの労働者などの待遇は想像を絶する。ヤマの米騒動後、わずかに賃金が上がって喜ぶ坑夫たち。旅芸人も多数訪れる。狐に騙される様や炭鉱で死んだ坑夫が幽霊となって現れる。山本作兵衛さんの炭鉱画は、記録に徹底したことが良かったと思う。何かを表現しようとして記録に徹することはなかなか難しい。どうしても誰かに褒めてもらいたいとか認められたいという思いが頭にもたげて余計なことをやってしまう。気をつけよう。

 私どもの子どものころをふりかえってみますと、ヤマの生活も大きく変わったものだと思います。夢のげな気のすることもあります。坑内の機械化も恐ろしいほど進みました。ツルハシ一挺で石炭を掘ったり、スラやセナで運びだしておった時代とくらべるなら、天地の差です。しかし、これは私のひがみかもしれませんが、炭鉱の坑夫は、はたして囚人とどれほど違うだろうか、という思いがいつも頭から離れません。下罪人とさげすまれておった明治時代からみれば、たしかに人間らしい生活になってきたかもしれません。しかし、ひとたび戦争になったらどうでしょうか。産業戦士だ、石炭戦士だ、と口ではおだてますが、じっさいは囚人以下です。むごいものです。奴隷とどれだけの違いがあったでしょうか。あれは戦争中だからやむえないという人もありますが、それならいまの状態はどうでしょうか。組夫といわれる人たちのありさまをみますと、まるで明治時代の下罪人とそっくりのような気がしてなりません。
けっきょく、変わったのは、ほんの表面だけであって、底のほうは少しも変わらなかったのではないでしょうか。日本の炭鉱はそのまま日本という国の縮図のように思われて、胸がいっぱいになります。

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