「追われゆく坑夫たち」 上野英信

本の話

しばらく絶版状態だった本書が重版されるのを岩波書店のウェブサイトで知り早速購入。本書の帯には、「ご要望にお応えしてアンコール復刊、貧困ドキュメントの名著」とある。本書を読んで、昔の岩波新書は文字が小さくて内容がギッシリだったなあと改めて感心した。出来れば「地の底の笑い話」も復刊してほしいと思った。

本書の初版は1960年。今から約60年前に「奴隷労働」と言われるような炭鉱の仕事に従事していた人びとがいた。当時の中小炭鉱で働く坑夫たちは、「肩入金」と呼ばれる前借金制度につられて「ヤマ(炭鉱)」を転々と移っていく。賃金の遅払い、分割払いや金券払い等が多くなると確実に賃金を支払う「ヤマ」へ、しかも「あがり銭」という日給払いをしてくれる「ヤマ」へ流れていく。「あがり銭」は当日の賃金の20パーセントで、残りの80パーセントはいつ支払れるかわからなかった。中小炭鉱が閉山した場合、退職金も未払いの賃金も会社が支払うことがなかった。

 あいついで中小炭鉱は倒れてゆく。投げだされた幾万の失業者たちは、白日のもとに掘り出されたみみずさながらに、あえぎ、のたうち、そしてひからびてゆく。しかし、もちろん、すべての中小炭鉱が倒れてしまったわけではない。まだしぶとく生き残っている多くのヤマがあり、あるいはまた、この不況のさなかに坑口をあけたばかりの多くのヤマがある。そしてそこでは、追いつめられたものの狂暴さと、屍の血をすする残忍さをもって、言語に絶する野蛮な搾取がつづけられており、しかもますます強められつつある。そこで働く坑夫たちの賃金は、ごく一部の比較的安定した中資本経営の場合をのぞけば、おしなべてその日働きの自由労働者以下の水準であり、彼らの生活はおしなべて生活保護者以下の水準である。ましてひとたび賃金の不払いが-徹底した収奪手段そのものとして資本に操作されて-ひき起こされたが最後、彼らは全く乞食以下的飢餓生活に追いこめられる。「失業して生活保護を受けている者は、家を借りることもできるし、商店で掛売りをしてもらうこともできるが、炭鉱で働いている者は、掘立小屋ひとつ借りることもできなければ、唐芋ひとつ掛売してもらえない」

著者は学歴を詐称し、名前を変えて九州の炭鉱で働き、中小炭鉱のルポルタージュを書くようになる。ルポルタージュを書く最大の理由は、誰も中小炭鉱で働く坑夫たちについて書かなかった為。発表した著作に対しては「暗すぎる」とか「否定的な側面ばかりを強調しすぎる」という批判ばかりだった。著者が最初に働いた海老津炭鉱を閉山後に再び訪れる。

 大小無数の陥落湖沼をかかえて果てしもなくひろがる黒い砂漠、その風化したボタ土のひだの間にさながらシラミかダニのごとく蠢いている幾万の棄民群。もしあなたがそれについての一片の知識をもたない初めての旅行者であるならば、まるで日本中のルンペンや乞食を一地域に集結させたかと思われるほど累々たるこの「生ける屍」の大群が、すべて昨日まで働きつづけてきたあの炭鉱労働者の今日の姿であることを承認するのは、おそらく決して容易なことではありえないであろう。あるいはまたあなたがいささかの予備知識とそれに基づくどれほど悲惨な想像図をえがいて訪れた者であろうと、眼前の現実があなたの知識と想像の貧弱さを証明してくれるのに多くの時間は要しないであろう。いや、他人ごとではない。かつてそこで働きそこで生活した経験をもつ者にとっても、現実が彼に与える恐るべき衝撃の度合には寸毫の変りもない。寸毫の変りもないどころか、むしろそのような経験をもった人間に対してこそ、現実はこのうえもない残酷さをもって業火のごとくに襲いかかる。石炭鉱業整備事業団の手によって昭和三十一年に買いつぶされた海老津炭鉱を閉山後はじめて訪れた日のことを、私は決して生涯忘れることはあるまい。それより十二年前はじめてそのヤマに足をふみこんだ日のことと共に。

著者は中小炭鉱のルポルタージュを書くことに苦痛をおぼえ書くことも少なくなる。また、書くものに救いのない悲哀や悔恨や呪詛の影のみ濃くなってきた。そのような破滅的状況のなかで岩波新書の仕事を受け持つことになる。ところが、あらゆる新聞や雑誌が中小炭鉱の悲惨さを書きたてはじめ、著者は書く気がなくなる。そのような状況で岩波新書の仕事を進めるのは地獄の責め苦だったそうだ。それでも岩波新書として作品が残ったことは、後の人間にとって良かったと思う。このような記録がなければ、忘れ去られ別の物語となったかもしれない。

 追われゆく坑夫たち。もはや彼らのまえに明日がないことを彼らは知っている。誰がなんといおうと、明日が今日にもまして虚妄にすぎないことを、彼らは知っている。そのゆえに彼らは絶望も持たなければ希望も持たない。絶望を持たない-そこに絶望があり、希望をもたない-そこに希望がある、といえばいえるかもしれない。しかし、そんないいかたも所詮は虚妄であろう。
はっきりしていることは、ただ、夜がますます深まっているということだけだ。この真っ黒な夜の底で、われわれは彼らの屍をたべなければならぬ。明後日の朝をきりひらきたいと欲している汚辱にまみれた飢餓を、より一層たえがたいものとするために。

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