「罪と罰の彼岸」 ジャン・アメリー

本の話

本書は32年前法政大学出版局から刊行された「罪と罰の彼岸」の新版。年譜と訳者による書き下ろしの解説が付け加えられた。ジャン・アメリーの翻訳を新刊で読めるのは本書のみで、他の著作は絶版状態。管理人は訳者が池内紀さんだったので読んでみようと思った。

アウシュビッツでの経験をどのように後世へ伝えるか。或いは伝えることができるのか。200ページにみたない本書で、収容所での具体的な出来事の記述は少ない。アウシュビッツ裁判以降、雨後の竹の子のように出版されたアウシュビッツ関連本で収容所での衝撃的な出来事が明らかになっても、ルワンダやカンプチアなど世界のあらゆるところで大量虐殺は起こっている。広島・長崎の原爆体験についていくら語っても、核兵器はなくならなかった。アウシュビッツでの経験を語ることが、個人的なルサンチマンの告白になっているだけで、今の世代にとってアウシュビッツは「関係ない」「あり得ない」話になっているのではないか。プリーモ・レーヴィはこの伝わらなさについて懸命に説明しようとしたがうまくいかなかったように思える。

他人の経験を自分の経験として理解するのは可能なのだろうか。アウシュビッツや原爆の経験を記憶することで、何年後には世界が変わるかもしれない。そのような希望があるのかどうかは判断しようがないけれども。いくら本を読んでも「防弾用ガラスケースに保護された悪」を見るだけなのかもしれない。

 私は知っている、少数のドイツ知識人による誠実な努力にもかかわらず、何も起こらない。そして知識人たちは、とどのつまりは世間から求められるとおりのもの、つまり根なし草にとどまるだろう。はっきりとした兆候がこぞって指し示している。私たちのルサンチマンが求める倫理的要求を自然な時の推移が拒絶して、ひいてはきれいさっぱり消し去るだろう。偉大なる革命など、どこに起こるのだろう?ドイツは遅ればせの革命など願わない。私たちの恨みごとは見て見ない振りをする。ヒトラー帝国は、当分はなお歴史の業務上の過去というものである。だが、いずれ歴史そのものとなる。世界史にわんさとある、血がどっさり流れた劇的な年月と較べても良くもなければ悪くもない、たいして変わりばえのしない帝国時代ということになる。SSの制服を着た祖父の写真が奥の間にかかげられ、学校の子供たちにはユダヤ人選別台ではなく失業者問題に対する画期的な成功が語られる。ヒトラーやムヒラーやハイドリッヒやカルテンブルナーといったナチの大立物の名前が、ナポレオンや政治家フーケや革命家ロベスピエールやサン=ジュストにもひとしくなる。

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