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「チェルノブイリの祈り」 スベトラーナ・アレクシェービッチ

本書は、2011年の福島第一原発事故のときに現代文庫化され、著者が今年度のノーベル文学賞を受賞ということで重版された。福島第一原発事故がなく、ノーベル文学賞を受賞しなければ本書は絶版になっていた可能性が高い。

解説によるとチェルノブイリ原発事故に遭遇したひと約300人にインタビューしたそうだ。本文中にある著者の言葉は、著者へのインタビューだけで、他は証言だけで構成されている。取材時のエピソード、証言するひとに対する印象や証言にたいする批評などは一切ない。他のチェルノブイリ原発事故関連の本と本書との違いは、最初と最後にある「孤独な人間の声」にあると思う。管理人などは、チェルノブイリ原発事故関連の本を読むと、事故の原因だとか放射性物質がどのくらい拡散して、どのような影響を及ぼしたとかに関心が向かってしまう。解説を書いている広河隆一さんが同じひとに話を聞いたことがあり、その違いに驚いている。

 この本はチェルノブイリについての本じゃありません。チェルノブイリを取りまく世界のこと、私たちが知らなかったこと、ほとんどしらなかったことについての本です。見落とされた歴史とでもいえばいいのかしら。私の関心をひいたのは事故そのものじゃありません。あの夜、原発でなにが起き、だれが悪くて、どんな決定がくだされ、悪魔の穴のうえに石棺を築くために何トンの砂とコンクリートが必要だったかということじゃない。この未知なるもの、謎にふれた人々がどんな気持ちでいたかということです。チェルノブイリは私たちが解き明かさねばならない謎です。もしかしたら、二十一世紀への課題、二十一世紀への挑戦なのかもしれません。人は、あそこで自分自身の内になにを知り、なにを見抜き、なにを発見したのでしょうか?自らの世界観に?この本は人々の気持ちを再現したものです。事故の再現ではありません。

以下は本書からの引用。

 暗赤色の明るい照り返しが、いまでも目の前に見えるんです。原子炉が内側から光っているようでした。ふつうの火事じゃありません。一種の発光です。美しかった。こんなきれいなものは映画でも見たことがありません。<中略>私たちは知らなかったのです。こんなに美しいものが、死をもたらすかもしれないなんて。

 私たち、科学者や医者のいうことに耳をかす者はいませんでした。科学も、医学も、政治にまきこまれていたんです。もちろんですよ。忘れちゃならないのは、こういったことすべてが起きた背景にあった意識、あの当時、10年前の私たちがどんな人間であったか、ということです。KGBが活動し、秘密捜査が行われていた。<西側の声>はかき消されていた。山ほどのタブー、党機密、軍事機密。おまけに、わが国の平和な原子力は泥炭や石炭と同じくらい安全なんだと、みんなが教えられていたんです。私たちは恐怖と偏見でがんじがらめにされた国民でした。信念という迷信で。

 私たちっていったいなに者なんでしょう。汚染された土地に住み、畑を耕し、種をまき、子どもを産んでいる。じゃあ、私たちの苦悩の意味はなんなの。なんのためにあんな苦しい思いをしてきたの。いま私はこのことについてうんと議論を交わしています。友人たちと。なぜなら、汚染地というのはレムやキュリー、マイクロレントゲンのことじゃないからです。これは国民、ベラルーシの国民のことなのです。チェルノブイリは、この国の一度は死にかけた体制を<救ってしまった>のです。ふたたび非常事態、配給、携帯食料。「もし戦争さえなければ」と以前頭にたたきこまれたように、いままたなんでもチェルノブイリのせいにされる可能性がでてきたのです。「チェルノブイリさえなければ」と。私たちはすぐに憂いをおびた目をし、深く悲しむ。ちょうだい!なにか分けるものを私たちにちょうだい!チェルノブイリはえさがもらえる飼葉桶なんです。人々の不平不満をそらすための避雷針なんです。

 「キエフ旅行社はチェルノブイリ市と死に絶えた村へのご旅行をおすすめします。もちろん代金をいただきます。核のメッカへようこそ」

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