「ヴァイマル憲法とヒトラー」 池田浩士

本の話

そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい强いものはありません。

もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰争とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰争の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。

みなさん、あのおそろしい戰争が、二度とおこらないように、また戰争を二度とおこさないようにいたしましょう。『あたらしい憲法のはなし』より

本書はいくつかの講演記録を出版する際に、講演録の整理・再構成では上手くいかず、実質的に全篇書き下ろしの形になった。本書ではなぜヴァイマル憲法下でヒトラー政権が誕生し、ナチスの支配をドイツ国民が支持したかを問い直し、そのような状況は現代国家においても無縁な事柄でないことを示している。

よく知られているようにヒトラー政権は、ヴァイマル憲法に基づく選挙で誕生している。ヴァイマル憲法による国会議員選挙は、有権者の意思が出来るだけ反映するようにした制度だった。現代日本の小選挙区制のような大量の「死に票」が生じないように考慮されていた。ヴァイマル時代の選挙の投票率も高い時で80%の半ばに達しており、ナチ党の躍進は有権者の意思を反映していた。ヒトラーは政権に就いて以降憲法を改正せず、「全権委任法」よって様々な法律を制定し、ナチ党以外の政党は存続できなくなった。

ナチス時代を生きたドイツ国民には、戦後になってもなお「あの時代は良かった」と回想するひとが多かった。あの時代になって、ようやく生活は安定し、治安も良くなり、ドイツ人として誇りを持って生きられたと。実際、ナチス時代に失業率は驚くほど改善し、ヴァイマル時代には小党が乱立し、なかなか決まらなかった重要な政治案件が決まるようになり、アウトバーンが開通し、環境政策も進み清潔になっていった。しかしながら、このような政策は多大な犠牲がともなっていた。ユダヤ人を公職から追放し、強制収容所へ送った。侵攻した国々では強制労働を課し、安価な労働者としてドイツ国内でも働かせた。

ヒトラーは失業をなくしてくれるだろう、ヒトラーはドイツ人の誇りを取り戻してくれるだろう、ヒトラーは差別をなくしてくれるだろう、少なくともヒトラーはいまよりはましな現実をもたらしてくれるだろう-憲法が既定する主権者であり、自分自身の生の主体である民衆が、主体としての人間であるよりもドイツ国民であることに自足し、自分の生を職業政治家に委ねてしまったのが、ヴァイマル憲法のもとでのヴァイマル共和国の体勢でした。ナチス時代の国家社会は、その帰結でしなかったのです。

ナチスは「遺伝性疾患のある子孫を予防するための法律」によって、「生きる価値のない存在」の殲滅を目指した。この法律により、第二次世界大戦開始前までに不妊手術を受けた人が37万5千人に及び、38年末には三歳未満の精神障害と身体障害の幼児を「安楽死」させる方針が実行された。さらに、三歳以上の「生きる価値のない存在」にも適用され、41~42年にかけて7万0273人が「安楽死」させられた。43年4月ごろまでに約1万人の囚人が殺された。ナチス時代の12年半の間に1万7千人を超える人が死刑になり、軍事裁判で死刑を執行されたのが約2万人と推定されている。「清潔」で「治安の良い」国はこのような殺害によって成り立っていた。

本書を読んでいて、今の時代のことではないかと錯覚しそうなところがあった。自民党副総裁が「ワイマール憲法がいつのまにか変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。あの手口学んだらどうかね」(実際はナチス憲法というもの存在しない)と言ったように、現政権はメディア対策や政治的ライト層にむけた対策等でナチスを真似ているようなところがある。本書でも取り上げているアーレンの「エルサレムのアイヒマン」を読んだときに思った「思考停止」の怖さをあらためて感じた。「凡庸」だから考えることができなかったのではなく、考えないから「凡庸」になる。ナチスのような出来事は、ある条件のもとでは現在でも起こりうることだと著者は述べている。

いまあらためて、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」という日本国憲法の第一二条を嚙みしめたいと私が思うのは、憲法と私との関係を、ヴァイマル憲法とヴァイマル共和国の国民との関係と同じものにしてはならないと思うからです。もしも仮に、ヒンデンブルクやヒトラーがこの上なく良い政治家だったとしても、私自身にとって大切な事柄を、政治家たちの議論に任せて、私自身は静かに鳴りをひそめていることはできないでしょう。「いまこの政策をやめれば、これまでにしたことが無駄になってしまう、もっと悪くなる」と言って私を立ち止まらせないとするヒトラーに抗して、私はまず立ち止まり、考えなければならないでしょう。立ち止まる前に、ここは立ち止まるときだと私の胸が私に語りかけてくれるような、そういう感性を、日常生活の中で意識的に育てておかなければならないでしょう。それは、私には、一人ではできません。せめて、もう一人の人と出逢って、その人と語り合い、その人をしっかりと離さないように大切にしなければならないでしょう。

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