「私の1968年」 鈴木道彦

本の話

本書は1968年前後に発表された評論をまとめたもの。初出誌をみると、「展望」や「現代の眼」などがあり、今となっては知らないひとのほうが多いかも知れない。今年は1968年から50年。当時書かれた評論なので文章に若さが感じられる。管理人は「橋をわがものにする思想」をフランツ・ファノン集の解説で読んだことがあった。

著者はフランス留学中、1968年5月革命に遭遇する。フランスの若者たちの反乱を間近で目撃する。現在進行形でパリから日本へ報告する。50年後に読むとその先の状況がわかっているので何とも変な感じがしてしまう。政治的評論はその当時にそくして読むべきもの。後から揚げ足取りのような批判をしてはならないと思った。羽田闘争で亡くなられた学生の死亡原因も政治的な立場で変わってしまう。金嬉老は仮出所後韓国で殺人未遂事件を起こし再び下獄する。50年経って、若者たちの異議申し立ては何かを変えたのかのだろうか。

 ここに収録した自分の文章を改めて読みながら、私は半世紀の時のもたらした日本の変化を実感するとともに、むしろそれ以上に、依然として変化しないものがあることに強い感慨を覚えた。とりわけ変わらなかった最大のものは、国民の抗議や反対を無視して傲然と居直る権力者の体質である。一九六〇年代に、山崎博昭や由比忠之進の死を無視してアメリカの北ベトナム攻撃に協力したのは佐藤栄作政権だが、二〇一八年現在の政権がそれよりましだとは到底考えられない。そのことは、いくつかのよく知られた事件を思い浮かべるだけでも明らかだろう。
一方、これに対抗する声は以前と違って、きわめて脆弱になった。どんなに声を上げても聴く耳を持たない人びとと、反対はへの陰に陽に行われる巧妙な弾圧、メディアへの圧力と、そのメディアの劣化、国民の無力感、そういったものが諦めや政治離れを生み、多くの無関心層を作り出した。表向きは自由な民主的国家を装いながら、ほとんど一党独裁に近い少数の為政者の言いなりになっている現在の社会を考えると、今後に想定される日本の未来に、私は暗澹たる気持ちに襲われる。「一九六八年」は、そのようなものへの抵抗が生きていた時代として、今一度見直されてもいいだろう。

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