ベ平連とその時代

本の話

本書は『ベ平連』の発足から、解散までを辿ったもの。あの時代を直接知らない人にも『ベ平連』の活動がどのようなものだったかがわかると思う。当時の『ベ平連』の活動に携わった人たちが少なくなり、中心人物だった小田実や鶴見俊輔も亡くなっているが、各地に『ベ平連』の流れをくむ活動は続けられている。フランス・デモ、徹夜ティーチイン、脱走兵支援、フォーク・ゲリラ、ハンパク、反戦喫茶等のユニークな活動が『ベ平連』の特徴だった。新左翼各セクトや労働組合とは違い、普通の人びとが参加し、普通の言葉で議論しあえる場を与えるのが『ベ平連』だった。だからこそ各地に『ベ平連』が広がっていったのだろう。

『ベ平連』の活動が広がっていくにつれ、問題も多くなっていった。もともいくつかの市民団体のつながりだった『ベ平連』が70年安保前には一つの党派として見られるようになった。活動が多岐にわたり、全共闘や新左翼セクトとの関係も生じ、事務局は難しい対応が迫られた。最大の目標としていた70年反安保闘争は予想に反して盛り上がらず、『ベ平連』のデモに参加する人も減っていった。普通の人びとは、安保よりも大阪万博に対する興味のほうが大きかった。70年安保は自動延長され、大阪万国博には述べ約6000万人が入場した。「佐藤政府の戦術は大成功を収めた」とルモンドの特派員はつたえた。

1973年1月ベトナム和平協定が調印された。4月に京都ベ平連が解散。12月神楽坂ベ平連が解散。翌1974年1月東京のベ平連が解散した。解散集会にはアフリカを旅行していた小田実は参加していない。鶴見俊輔は「だれが生徒か先生か」というフレーズに惹かれる「メダカの学校」を引き合いにだし、ベ平連は自由な運動として「メダカの学校」のような「生き生きとした学校だった」と話した。

中越戦争が起こり国境紛争が続いた頃、小田実に対する様々な批判が起こり、小田実が「ベトナムについては『ベトナムから遠く離れて』に書いたから読んでほしい」と何かに書いていて、管理人は『ベトナムから遠く離れて』を読んでみた。批判に対する答えとなっているかどうかよくわからなかった。その後、『「ベ平連」・回顧録ではない回顧』を読んでみて、小田実の思いと実際の運動とのズレが大きく、普通の人びとの運動を維持していくのは難しいと思った。それは知識人が普通の人の言葉で語ることの難しさでもあった。

 身ぶりというのは、単なる身のこなしという意味だけではなく、人びとが他者とコミュニケートをとろうとする際の、発話から表情、そして身のこなしや振る舞いまでを含む幅広い意味をもつ。したがって、デモのなかで歩きながら、ビラや花を配りながら、人びとに共感が広がる身ぶりが模索されていった。もちろん、デモだけではない。フォークソングであったり詩であったり、あるいは様々なミニコミの発行も、身ぶりの模索の延長戦上にあったといえるだろう。それらは身ぶりを通したもう一つの政治空間を生み出す試みだった。
私たちは今、インターネットの登場と拡大で、ベ平連の時代とは比較にならないほど便利なコミュニケーションのツールをもっている。ところが一方で、フェイクニュースが氾濫し、ネット空間での誹謗中傷がエスカレートするなど、歪んだコミュニケーション空間が生み出されてもいる。ベ平連が模索したのは、身ぶりを通して人びとに訴え理解や共感を広げていく試みでもあった。こうした試みは、今もなお、いや、今だからこそ、きわめて重要なものとして振り返ってみる必要があるのではないだろうか。

著者 : 平井一臣
出版社 : 有志舎
発売日 : 2020/07/18
単行本 : 340頁
定価 : 本体2800円+税

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