サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する

本の話

「サガレン」とは樺太/サハリンの旧名。本書は二部構成で、一部は寝台列車に乗ってのサハリン紀行、二部は宮沢賢治がサハリンを旅した跡を追う紀行。一部も林芙美子や北原白秋の樺太が引用されているので純粋な鉄道紀行とはいえない。寝台急行で行って帰ってくるだけだとそれほど書くこともないのかと思った。サハリンは世界遺産が目白押しといったような観光地ではなく、石油や天然ガスのプラントで栄えている場所であまり観光客が来ないところらしい。本書で修学旅行で札幌から寝台列車で京都へ行ったとあり、著者はどこの高校出身かと調べたら藻岩高校だった。管理人も修学旅行で地獄のような寝台列車に乗って札幌から京都へ行った。修学旅行から帰ってきたら目眩が酷く1週間学校を休んだ。その時以来3段ベットB寝台車には絶対乗らないと心に誓った。

林芙美子や北原白秋が樺太を訪れた時、北緯50度に国境線があり、日本が統治する南半分を樺太とよび、ソ連領の北半分をサハリンあるいはサガレンとよんだ。海に囲まれた日本本土にいると国境を意識することがなく、樺太の国境線が観光スポットとなっていた。1938年、国境線を見に行くと言って女優岡田嘉子と杉本良吉はそのまま国境線を越えソ連領へ入った。この事件をきっかけに国境線へ近づくことは禁止された。ソ連へ不法入国した二人はスパイ容疑で捕まり、杉本良吉は銃殺刑となり処刑され、岡田嘉子は自由剥奪10年の刑を受ける。戦後岡田嘉子は日本へ一時帰国するが、再びソ連へ戻り亡くなる。

宮沢賢治は妹トシを亡くした翌年8月教え子の就職を相談するため、樺太の王子製紙の工場を訪れた。著者はこの時の旅行の跡をだどっていく。著者二回目のサハリンの旅では、全島の鉄道が停止している時期に重なり、車での旅行となる。著者は宮沢賢治の詩『オホーツク挽歌』と『銀河鉄道の夜』を引用しつつ、宮沢賢治が訪れただろう場所を巡る。宮沢賢治は信仰が揺らぎ、死後妹は何処へいくのか迷っていた。樺太への旅は、就職斡旋依頼のためだけではなかったようだ。妹捜しの旅だったのかのかどうか。『オホーツク挽歌』の内容も管理人にはわからないことが多い。というか宮沢賢治の詩は管理人にとってわかりにくいものだらけである。

『銀河鉄道の夜』でジョバンニとカムパネルラは白鳥の停車場で降りて、プリオシン海岸へ歩いて行く。白鳥の停車場は『銀河鉄道の夜』の中で彼らが唯一途中下車する駅(停車場)である。樺太の旅で、宮沢賢治は栄浜を訪れており、栄浜の近くには白鳥湖がある。北白鳥湖駅が開設されたのが1929年で、宮沢賢治が栄浜を訪れたときには駅がなかったので、白鳥湖へ行くには歩くしかなかった。当時の白鳥湖の様子をチェーホフ『サハリン島』から著者は紹介している。結局、宮沢賢治が白鳥湖を訪れたかどうかはわからない。

 サハリンで鉄道に乗りたい。できれば廃線跡もたどりたい。そんなシンプルな動機で始まった旅だった。ふだんの取材では、資料探しやインタビュー、各種調査に事実確認と、目的のはっきりした旅が多いが、今回は大まかなルートしか決めずに出発した。この島の複雑な歴史はひとまず横に置いて、移動しながら感じたり考えたりしたことを、そのまま文章にしたいと思ったのだ。
だが樺太/サハリンは、歴史のほうから絶えずこちらに語りかけてくる土地である。みずからの歴史からひきはがされた民族がおり、故郷から拒まれてたどり着いた人たちがり、新天地を求めてやって来た人たちがいた。囚人あるいは兵士として送りこまれ、命を落とした人たちもいれば、宮沢賢治のように、死者にみちびかれるようにしてこの地を踏んだ人もいる。
かれらの声に十分に耳を傾けたとはいえない。列車の揺れは心地よく、目にうつるものはみな面白く、空も海も雪も、工場の廃墟でさえ、信じられないほど美しかった。旅そのものが与えてくれる幸福が大きすぎたのだ。

著者 : 梯久美子
出版社 : 角川書店
発売日 : 2020/4/24
単行本 : 288頁
定価 : 本体1,700円+税

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