「哲学は対話する」西研

本書は3部構成で、1部がソクラテスとプラトン、2部がフッサール現象学、3部が本質観取の実践を取り上げている。1部と2部はそれぞれの哲学の説明なのでそれなりに読めた。しかしながら、3部の本質観取の実践が、著者が主催している「哲学カフェ」や「ワークショップ」で行っている話し合いによって「共通の了解」を得ることだったので些かはぐらかされた感じだ。「哲学の可能性」がワークショップによる話し合いというのは、独断論と相対主義の対立にたいする解答になっているのだろうか。

管理人は哲学カフェやワークショップに参加したことがないのでどの位の人数で対話を行うのかあからない。10人から20人程度で得られた「共通の了解」が、100万人や1000万人の規模での「共通の了解」になるのか。1000万人の規模での「共通の了解」と独断論との差異はどうなるのか管理人にはわからない。現象学的還元の要請で、どこかにあるはずの「唯一の真理」を求める姿勢を放棄すると言いながら、「共通の了解」という真理を求めているように思われる。それこそ、一人を殺せば殺人者だが、百万人殺せば英雄になるといた「共通の了解」の逆転が起こりうると思う。

普通のひとが生活するには、「素朴実在論」で何の支障もないと思われる。独断論と相対主義のジレンマは、哲学の研究という狭い領域だけのことで普通の人々にとってはどうでもよいことではないだろうか。フッサールも現象学も知らないし、哲学の本どころか本を全く読まないひとにとって「本質観取の実践」はどういう意味を持つのか。浮世離れの言葉遊びには付き合っている暇は無いと一喝されるかもしれない。哲学は専門家にしかわからないのだから素人はほっとけと言われたほうがまだわかりやすい。

本書を読んでいて物理学や数学の記述に違和感があるところがあり、巻末の参考文献を見たら、物理学や数学などの自然科学関連の本がなかった。何を参考にしているのかわからず不思議だった。本書は選書なので専門家向けの学術書のようにはいかないのだろう。哲学者が統一場理論やら不確定性原理やら相対論やらに言及するとき、どのくらい文献を読んでいるのかが気になる。宮澤賢治の評論を読んでいて、宮澤賢治が相対論を理解していたと書いていた文芸評論家がいたけど、いくらなんでもそれはないでしょうと管理人は思った。

関連記事