「ドイツ革命」 池田浩士

本の話

20世紀に起きた革命で成功したものはなく、革命は「永久革命」にしか希望がない。だが、「永久革命」が継続される国家などあるわけもなく、革命と言う言葉は政治的な意味で使われることが殆どなくなった。人間は成功よりも失敗によって学ぶことが多いとよく言われる。だがナチズムが現代に蘇ってきているのをニュース等々で見ると歴史から何を学ぶかは様々である。ひょっとしたらヒトラー並に上手く人々を掌握して「第四帝国」を建立する何かが現れるかも知れない。それが人間なのかAIなのかはよく分からないが。

1918年11月9日、首都ベルリンではゼネストと武装デモが起こる。帝国議会議事堂に押し寄せた民衆い向け、社会民主党のシャイデマンが演説を行い「共和国万歳」を唱えて演説を結んだ。この演説が「共和国宣言」に受けとられた。その後、独立社会民主党のリープクネヒトが「社会主義共和国」を宣言する。この日の午前中、バーデン宰相は皇帝退位の布告を行った。この時、皇帝ヴィルヘルム二世はベルギーにおり、まだ退位するつもりはなかった。それにも関わらずバーデン宰相は「皇帝・国王の退位」の公布後、社会民主党のエーベルトに政権を渡した。ドイツ帝国憲法では、宰相を任命できるのは皇帝だけだった。臨時革命政府は敗戦処理と秩序回復のため、旧軍部・官僚組織をほぼ踏襲した。労働組合・組合員の急進化を恐れたため資本家とも妥協した。退位した皇帝ヴィルヘルム二世はオランダへ亡命する。

独立社会民主党から分派したスパルタクス同盟は名将をドイツ共産党と改めた。独立社会民主党は臨時政府から脱退し、プロイセンの連立政府も全ての大臣・次官を引き揚げた。プロイセン政府は独立社会民主党員であるベルリン警視総監アイヒホルンを罷免する。これに対してアイヒホルンは退任を拒否した。独立社会民主党、スパルタクス同盟は1919年1月5日にアイヒホルン罷免撤回を求めるデモを呼びかけた。翌1月6日はさらに多くの労働者や兵士が集まり、主要な新聞社社屋は反政府側に占拠され、警視庁と旧王室厩舎はともに要塞化していた。社会民主党幹部とプロイセン軍事大臣を交えて対応を協議した。臨時政府は過激派を一掃するチャンスとみて軍隊によって占拠された建物の奪還を行った。1週間余りの内戦状態は1月12日早朝最後に残った警視庁を軍が奪還して終わる。この時、独立社会民主党幹部ゲオルク・レーデブーアは逮捕された。ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは身を隠したが、1月15日ベルリン占領軍に連行され虐殺された。

歴史上もっとも民主的な憲法と言われた「ヴァイマル憲法」は1919年8月14日に公布・施行された。「ヴァイマル憲法」の条項は1848年の「三月革命」で成立した「パウロ教会憲法」から受け継がれたものが多かった。統一国家の制定に至らなかったため、「パウロ教会憲法」は成立したが施行されずに終わった。

 「ヴァイマル憲法」によって宣言された基本的人権の諸条項は、少なからぬ文言と文脈に至るまで、「パウロ教会憲法」から受け継がれたものだったのである。第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国(西ドイツ)の憲法がヴァイマル憲法に多くを負っていることについては、しばしば語られる。だが、ヴァイマル憲法の基本精神、とりわけその人権思想の源泉は、パウロ教会憲法にあった。このことは、二つの重要な事実に後世の目を向けさせずにはいない。ひとつは、七〇年前の「三月革命」が、君主制打倒を回避したゆえに実現できなかった理想を、一九一八年の「一一月革命」は、君主制を打倒したことによってついに実現することができた、という事実である。そしてもうひとつは、疑いもなく「一一月革命」の成果であるヴァイマル憲法が明文化した民主主義的な自由と人権は、七〇年前の市民革命の理想でしかなかった、という事実なのだ。

ヴァイマル憲法が定める基本的人権の保障には例外規定が設けられた。一般に「大統領緊急命令」と呼ばれるこの条項は、ヒトラーによる独裁体制を導くことになる。一旦政権についたものが暴走しだすと止める手立てが失われることがナチス政権が示した。1929年の世界経済恐慌による大失業状況はナチスの躍進を促した。1932年7月31日の選挙でナチスは国会第一党となり、1933年1月30日にヒトラー内閣が誕生する。その後、「大統領緊急命令」が何度も発令され「ヴァイマル憲法」が形骸化する。著者は最後に次のように述べている。たぶんこれは今の日本に向けて述べた言葉だと思う。

 ドイツ革命のなかで、自由と自治と共生の夢を現実のものとする機会を逸し、思考と意志と行動とを共に模索し実行する場を見失った主権者は、選挙権を行使するという議会制民主主義の主権だけを享受した。日常の現実が絶望的なればなるほど、決断力と実行力を誇示し売り物にする強い政治家にすべてを委ね、みずからが共に思考し意志し行動することからますます遠ざかったのである。

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