「鶴見俊輔伝」 黒川創

本の話

管理人が雑誌「思想の科学」を読みはじめたのは1980年代だった。当時「思想の科学」が終刊になるとは思っていなかった。約50年続けていた雑誌「思想の科学」を余力を残しながら終刊させたのは鶴見俊輔さんらしい決断だった。管理人が黒川創さんの単独著作を読むのは本書が初めて。黒川さんの父親が北沢恒彦さんということで、著者は小さい頃から鶴見さんを見知っていたそう。といっても本書には鶴見さんのちかくにいたひとのインタビューや回想はほとんどない。あくまでその時点での『鶴見俊輔』を描いている。

鶴見さんが悪人だったと自嘲気味に話していた少年時代によく自殺しなかったと思う。鶴見さんの写真を見ると晩年のほうが穏やかな童顔で、少年の頃のほうが表情は厳しい。鶴見さんは重篤な鬱病を3度発病しているが、後半生には鬱病を発病していない。海軍軍属として慰安所の設営に奔走しながら自身は利用することがなかった。少年時代の放蕩によって、慰安婦に対してブレーキが掛かったという。「まっとうな人間」の自分と「悪人」の自分との葛藤が心に負荷をかけ続けていた。戦時の兵隊が敵を殺すことは当たり前な行為であったのに、鶴見さんは思想信条として人を殺せないと思い悩み、そのような状況になったら自殺しようと考える。幸い人を殺す状況は生じず、鶴見さんは病気のため日本へ帰還する。

アメリカ留学後、日本へ戻り敗戦を覚悟していた鶴見さんは戦後日本人の変わり身の早さに驚く。公職を追放された人々が特別免除を求めて官庁に提出した追放解除申請書が『共同研究 転向』に典拠を伏せて利用された。追放解除されて、威張った物言いをしている右翼の大物たちも申請書では「私は昔から民主主義者だ」と弁明していた。東条内閣の閣僚で開戦責任のある当事者が敗戦後10年余りで首相に返り咲くことに鶴見さんは衝撃を受ける。1960年5月鶴見さんは東工大に辞表を出す。翌年同志社大学に招かれ教授となるが、1970年大学構内に機動隊を入れる教授会決定に抗議して辞職する。この間、鶴見さんは「声なき声の会」「ベ平連」「思想の科学」等々の活動をこなしている。

晩年鶴見さんはTVのインタビューで、昔の仲間の追悼文を書くことが多くなって寂しいと話していた。自分より若い仲間の追悼は心が痛むとも話していた。

 埴谷の『死霊』は、一九四六年(昭和二一)一月、「近代文学」創刊号誌上で連載が始まり、九五年一一月、第九章「《虚体》論-大宇宙の夢」発表をもって未完のまま擱筆する。鶴見たちの「思想の科学」も同じ一九四六年の五月に創刊、こちらは九六年四月(五月号)までである。
長命を保つことは、次つぎに旧知の人びとの死を見送る経験をも意味した。鶴見の場合、年齢を重ねるにつれ、これら亡き知人たちへの「追悼文」をジャーナリズムから求められることも、加速するように増していった。若いうちは、たとえ著名な書き手でも、こうした文章を求められることは少ない。「追悼文」を書くほど誰かのことを長く知るとは、自分もそれだけ死に迫っていくことである。
ともにガン経験者であるノンフィクション作家・柳原和子(一九五〇年生まれ、『がん患者学』著者)と鶴見俊輔が京都・法然院の秋の庭を眺めながら対談するテレビ番組を見たことがある。
鶴見は、庭に舞い落ちていく木の葉を指さし、語っていた。
-いまの自分は、あの葉の一枚のなかにいて、世界が目の前をよぎる一瞬を眺めている。そのように感じる。-

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