「第二阿房列車」 内田百閒

本の話

百閒先生と山系君のコンビは「第二阿房列車」では、新潟、横手へ行き、山陽本線の新特急「かもめ」の初運転に招待され、九州へ渡る。有名人の百閒先生が行くところ行くところで新聞記者やら放送局のひとが訪れる。気難しい百閒先生だが、訪問者に対しては気遣いをみせて適当に質問に答える。どんなことを話したのかは本書では曖昧な書き方で内容はよく分からない。

『雷九州阿房列車』は、豪雨の中での周遊で、一日違いの差で不通になるところを避けて東京に戻ってくる。現代なら多分九州へは行かなかったのではないか。それにしても高橋義孝氏の解説はよく分からなかった。そう言えば昔の文庫の解説は難解なものが多かったような気がする。

とうとう阿房列車も「第三阿房列車」を残すのみ。乗車したら、降車しなければならないといったところか。名残を惜しんで第三阿房列車」を読むことにしよう。

 さて、走り出した。汽車が走るので、乗っている私の身体にも、スピイドが加わって来る。非常な勢いで動いて行く。発車する前は色色気が散ったが、動き出してから、却って落ちついた。
落ちついて考えて見ると、全く何も用事がない。行く先はあるが、汽車が走って行くから、それに任しておけばいい。私が自分の足で走るのでないから、どこへ行くつもりでこの汽車に乗ったかと云う事を、忘れても構わない。又走って行く汽車の中で、一たび何も用事がないと云う事になれば、その後から新らしく用事が発生するわけもない。車内には私に接触し関聯する社会はない。面識があるのは、前の座席で曖昧な顔をしているヒマラヤ山系氏だけである。しかし彼は、阿房列車の旅行では、私の外界ではない。
何もする事がない。手足を動かす用事はない。ただ考えている。何を考えるかと云うに、なんにもする事がないと云う事を考える。そうしてその事の味を味わう。何もする事がなければ、どうするかと云うに、どうもしないだけである。二三度そんな事を繰り返して、いい心持でぼんやりして来た頭の中に、少しくはっきりした事が纏まり掛ける。眠くはないかと云う事。何か食べる気はないかと云う事。

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