「中原中也 沈黙の音楽」 佐々木幹郎

本の話

本書は新書として頁数多く300頁近くある。本体価格が900円とちょっと高めの設定。管理人が学生の頃、岩波新書はページ数にかかわらず値段が同じだったような気がする。普通の新書も1000円台突入か。

札幌国際芸術祭2017の吉増剛造展“火の刺繍―「石狩シーツ」の先へ”における映像で、「石狩シーツ」の草稿を観ながら詩人による朗読を聴いて、詩のリズムというのは詩集を黙読しているだけでは感じられないという思いを強く感じた。本書に中原中也が自作詩を朗読したときの印象が書かれているが、実際に中原中也の朗読を聴くことができたら詩の印象も変わることだろう。残念ながら中原中也の朗読を聴く術がない。ボブ・ディランが詩人ではなくミュージシャンになったのは音とリズムにあったのではないかと思う。

本書には「中原中也新編全集」刊行後の新資料が取り上げられている。「サーカス」にあるオノマトぺ「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」が中国語のブランコを揺らすかけ声を転用したものという研究結果があるのを本書で初めて知った。中原中也が「中村古峡療養所」に入院していたときの「療養日誌」が発見され、入院中に書かれた「道修山夜曲」の初出誌が療養所で発行している月刊誌「黎明」であることがわかった。また、2013年に安原喜弘の遺品から中原中也の手紙が新たに発見された。

今年で中原中也が30歳で亡くなってから80年たった。「山羊の歌」と「在りし日の歌」という2冊の詩集を刊行したのみの詩人についていまだに新しい本が出版される。最後「在りし日の歌」の原稿を小林秀雄に託した中原中也の思いは通じたのだろうか。中原中也の詩「盲目の秋」について著者は次のように述べている。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

その間、小さな紅の花が見えはするが、
  それもやがては潰れてしまふ。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

もう永遠に帰らないことを思って
  酷薄な嘆息するのも幾たびであろう・・・・・・

私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華と夕陽とゆきすぎる。

(「盲目の秋」全四節のうち第一節第一~五連)
 自然という無限の力の前で、腕を振ることしかできないのは、まことに滑稽なことなのだが、その滑稽を生きるということ。中原中也の詩の言葉は3・11以後、強烈なバネのようにわたしを掬い取った。大震災後の日本の被災地に置くことができる唯一の言葉として、この詩句はわたしのなかで新しい生命を生んだようだった。
 わたしはどう生きるか、これから、という切実な、未来に対する畏怖の思いを抜きにして、言葉は力を持たない。東北の被災地の海岸で、目の前に「風が立ち、浪が騒」ぐ荒涼たる風景を見ながら、中原中也は何と普遍的な詩の世界に立ち向かっていたのか、とわたしは改めて思ったのだった。本書には全章にわたって「盲目の秋」の詩の世界が背景に波打っていると考えてもらってもいい。

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