「知性の顚覆」 橋本治

本の話

本書は季刊「小説TRIPPER」に連載された「知性の顚覆」を新書にまとめたもの。英国のEU離脱とトランプ大統領就任が著者に与えた衝撃がきっかけで本書を書いたのではないかと思われるところ随所に見受けられる。「たとえ世界が終わっても」の続編のような感じがする。連載のきっかけは、出版不況には「ヤンキーに本読ませなきゃだめだよ」と著者が言ったのにたいして、編集長が「それ!」と言ったことにある。編集長の「それは!」というのは「ヤンキーが読めるようなもの」ではなく、「このままだと知性の裾野が痩せ細って、そのものが崩壊してしまう」ということを論じて欲しいだった。

本書の最初のほうを読んでいると「ヤンキーが読めるようなもの」ではないのに、ヤンキーの話がだらだらと続き、この本は「知性の裾野が痩せ細って、そのものが崩壊してしまう」ということを論じるんじゃないのと素朴な疑問が浮かび上がる。本書の半分くらいまでは、橋本節炸裂で何を言いたいのかよくわからない。そのことはまえがきとあとがきに書いてあるのでそんなもんだろうと納得したが。せっかちなひとは後ろの2章だけ読めば「知性の裾野が痩せ細って、そのものが崩壊してしまう」ことについての著者の見解がわかると思う。

最近のCMが面白くないというところからやっと「日本人がバカになってしまう構造」が見えてくる。バブル崩壊後、とにかくモノを売るにはどうすればよいか。「バカじゃないひと」より「バカなひと」のほうが圧倒的に多いので、「バカなひと」をターゲットにコストを抑えた商品を生産すればよいというのがその答えだった。福沢諭吉が見たら烈火の如く怒るような「バカのままでいい」という広告が氾濫する。経済が閉塞状況になれば、顧客のレベルを下げてより多くの消費者を獲得することが必要になり、経済はバカさを促進する。

 戦後の日本には、時々「バカでもいい」という宥しが、笑いと共にやって来る。バカを演じて笑いを取るというのは伝統的なあり方だから、ここを発展させると、素のバカでも「恥知らず!」などと言われずに、笑って許してもらえることになる。芸能的には、「愚は天寵である」という考え方も古くに存在した。しかし、現実社会にバカを撥ねつけるだけの力がなくなっていたから、「あきれる」が否定的にも肯定的にも意味を持たず、ただ「あきれて、笑って、許してしまう」になる。近年の「おばかブーム」というのは、そういうものである。崩すものも茶化すものもなくなってしまった時代に、CMがおもしろくなるはずはない。

EUを離脱した英国で行われた選挙で保守党は議席数を減らし過半数割れになった。国民投票でEU離脱を決めた後、著者は英国民の実態を知って驚く。問題にすべきは、「知性」に価値を見出す人間が減り、「知性」を支えることができなくなり、その基盤の劣化に気がつかなかったことである。それは英国に限らず、米国や日本でも同じである。最後にまたヤンキーの話がでてくる。ここで言う「ヤンキー」とは心に不幸を抱える人という意味で使っている。「ヤンキー」は「わけの分からないこと」をいろいろ言われると「むかつく」。そういう人たちを納得させられるような言説じゃないと知性は転覆したままで終わると著者は言う。やっぱり本書は心に不幸を抱える人に読んでもらう本じゃないかと思う。

 知性が「自分の納得」を目指すだけでよかった時代は、もう特権化した知性を孤立させたまま収束して行く-ということは、終わって行く。このままにしておけばそうなるしかない。
「少数の人間の頭がよければいい」という時代は、「なんで俺達を置いていくんだよ!」という人達の声によって終わり、「なんで置いていくんだよ!」という人達は、その「俺達」のレベルに合致するような人間を選ぶ。「それじゃ困るでしょう」というところで二〇一七年の世界があるわけだから、知性の方も尖鋭で複雑なことばかりを相手にせず、少しは「人に説明する」ということの必要に目覚めたらどうでしょうか?私の言っていることが複雑すぎるというのは重々承知しているけれど、既に世界は、「みんなの頭がもっとよくなければ困る」というところに行っているんですから。

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