「日本精神史」 阿満利麿

本の話

以前、宗教に関連する「朝まで生テレビ!」を視ていたら、「オウム真理教」の教祖と「幸福の科学」の代表が共に「私はブッタの生まれ変わりです」と述べて、司会者が「どっちが本当のブッタなんです」と聞くと二人とも「私です」「いえ私です」と答えて収拾がつかなくなってしまった。その後どうなったのか覚えていないが、視聴者の多くは「二人とも違うだろう」と思ったに違いない。

本書の冒頭で、堀田善衛さんの「方丈記私記」の印象的な場面が紹介されている。東京大空襲で被災した本所深川に、昭和天皇が視察に来たところに堀田善衛さんが遭遇する。驚いたことに人びとが土下座して泣きながら「陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申訳ないしだいでございます」と昭和天皇へ謝罪していた。日本人の「アキラメ主義」が、今日まで克服されず、その克服への道筋さえもつけられていないことに著者は愕然とした。著者によれば、「天皇崇拝」や「無宗教」も根は「自然宗教」にあるという。日本人の多くが「無宗教」であるのは、「自然宗教」の信者なのである。といってもほとんどの日本人はその自覚がない。

 このように、意識することがむつかしい「自然宗教」の雰囲気に漬かっていると、なにごとにせよ、主体的であろうとすることもまたむつかしくなりがちではないだろうか。私が「無宗教」を問題にするのは、「無宗教」でよいとする精神には、主体性が見出せないからなのである。主体性については本書で論じるが、要するに、自分の頭で考え抜いて、自分の発言や行動に責任をもつということである。
だが、現実には、そうした生き方のなんとむつかしいことか。主体性をもって生きようとすればするほど、他人や組織との摩擦が強くなるばかりではないか。それならばいっそのこと、主体的であるよりも、はじめから多数と同調する生き方に身を任せる方が楽ではないか。しかし、同調だけの人生のみじめさも見えている。どうしたらよいのか。

毎年8月になると広島・長崎の原爆被害や戦没者の慰霊が続く。このとき語り継がれるのは殆どが「被害者」としての日本人であり、加害者としての日本人ではない。加害者意識が薄く、被害者意識が強い理由のひとつに、「ムラ」社会がある。「ムラ」社会では内なる結束が優先され、意思決定が曖昧で責任者を特定することが難しい。そのため、責任をとるとなると「ムラ」社会の全員が責任をとることになる。「ムラ」社会の意思決定は「全会一致」制にあったが、「多数決」制が導入されることで「ムラ」社会の意思決定が著しくはやくなった。「多数決」制により少数者の権利は無視され、その社会から離脱できないならば、少数者は泣き寝入りするしかない。その泣き寝入りを強要するのが「暗黙の合意」で、あなたは反対だが社会の一員なのだから受け入れなさいと。

日本人の「アキラメ主義」というか、柳田國男風にいうと「事大主義」を克服し、日本人が主体的に生きるにはどうしたらよいのか。著者は「無宗教」的精神を相対化ないしは否定して、普遍宗教を生きる根拠として選択することが主体的に生きる方法の一つであると述べている。著者は宗教を「大きな物語」であると言い換えてきた。というのも「宗教」という言葉があまりにも誤解され、本来の意味が分からなくなったためである。著者は生きる根拠としての普遍宗教として法然の教えをあげているが、そのことが妥当なのか管理人には判断がつきかねる。

 現代の日本人の多くは、「今だけ、自分だけ、金だけ」を合言葉に生きているという。そこでは、不条理や不幸が自分に襲いかかることはない、自分は強運のはずだという思い込みをたよりに生きているのであり、万一不条理や不幸に襲われても、自分は不幸な運命にあったのだとあきらめて、それを解決する智慧を得るよりも、忘却だけをたよりに生きようとしている。わが身を襲う、不条理や不幸、不安を解決しようという気力が失われて久しいのではないか。人は、「死ねばおしまい!」なのである。わが身を振り返る余裕が、すでに失われて久しい。「末世」とは、こういう時代をいうのでああろうか。
たしかに、「大きな物語」に向きあうためには、エネルギーがいる。わが身を襲う不条理や不安、不幸に耐えるだけでも、エネルギーがいるのに、その上、「大きな物語」と向き合うことは容易ではない。しかし、「大きな物語」に向きあえば、時間はかかっても、「意味」を喪失した人生に新たな「意味」が見出されて、文字通り新しい人生がはじまる。
人間は、解決の困難な不条理をかかえて生きざるをえない動物だが、同時に、そうした不条理を克服できる道もまた発見してきた存在である。人生を、いかに納得して生きてゆくのか。それは、生きる上での最大の課題であり、もっとも緊急な課題である。だが、現代という時代は、それから逃れて不条理を見ないことにして生きようとする。見ないこと、ないことにすることと、解決することは大違いである。

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