友人の写真家中平卓馬との対話で始まり、再び中平卓馬との対話で終わるこの本は、ぼくが、1969年から99年にわたるちょうど30年間という年月のなかで、主として写真誌を中心に先輩・友人の写真家たちと交わした対話や、いくつかの雑誌の編集者に請われて受けたインタビューでの談話、そして、覚え書きか独り言に近いかたちで記した言葉の断片などを、おおむね時系列にそって一冊にまとめたものだ。
一口に三十年と言っても、たかが三十年とうそぶく気持ちのはしから、されど三十年というさまざまな実質が透けて見え、そのあいだに横たわるおろそかならない時間の軌跡の内訳には、かけがえのない幾多の人たちとの邂逅と対話があった。
ぼくの見たものは全部同じこと。つまり等質なんだな。それと同時に、場合によっては、さっきも言ったように他者やモノたちから見られているという感覚もある。そこから、さっきの話に戻っていくんだけど、もうすでに複写はこの写真集のなかでもたくさんやっているんですよ。生の現実だろうとあるいは印刷された映像となった現実だろうと、その境界すらぼくにとっては不必要だった。よく虚像と実像との二元性についていろんなジャンルで問題になるけれど、ぼくにとっては同じなんだ。例えば生の人間、女でもいいんだけど、生の女より印刷された女にはるかに生々しいリアリティを感じることがある、そのときにはそっちを撮ってしまう、ごくあたりまえにね。その結果が「ある七日間の映像」だったと言ってもいい。結局、のところぼくのめざしているものは何だろうな、一口ではとても言えないけど、ぼくにとってそのときいちばんリアルなもの、その断片をぱっとつかみ、印刷にのせメディアを通して外に出す。それが終わればもう誰が撮ったかなんて問題にならない、そんな種類の行為だと思う。
タクマさん、いまも貴方の好きなムスタン王国のローマンタンには風が吹いて、あの赤茶けた岩だらけの町を、風が吹き抜けていましか?そして、’68・10・21の国際反戦日の夜の新宿の街灯りとおびただしい群衆、そこにも吹き抜けていた風を憶えていますか?ぼくは、「歴史は繰り返す」などというアフォリズムをストレートには信じないけど、時間だけが、ただ時間だけがスルスルと、いったい何に向ってどうしようとしているのかわからないけれど、雪崩れのように遡行してしる感覚だけをみています。もしかしたらその感じこそ、”すべての敵”のネックかもしれないという気がしています。
森山 中平さん最近、写真とは何かなんて考える?考えてもしょうがないんだけどさ。
中平 哲学的に考えてもしょうがないよね。写真に即して考えることはできるけど。
森山 歩いて当たって、ショック受けて。
中平 その瞬間だけだね。
森山 ほんと、それだけだね、写真て。その瞬間がいくつもつながってくだけだね。
中平 最低なのは、篠山(紀信)と荒木だね。
森山 荒木さんはそうでもないよ。あなた、荒木さんいやだって言うね。
中平 モデル決めてやるなんて、まったく撮影行為とも思えないしね。
オレにだって自意識がないわけじゃないよね。希望とかこうすればいいとか。
ところが逆にさあ、予想していないことに出会ったりする、写真はそういった
過程なんじゃないかな。
森山 その累積だったりね。
中平 ある固定した自意識ね、その自意識の解体と新たなる自意識の再生ね。
そのつらいとこを引き受けつづけるしかないね。
森山 ほんと、その一点だね。もっと楽しく撮りたいけど、そうもいかないよね。
中平 ハワイにはなかなか行けないね(笑)。
森山 ・・・・・・(笑)。
タイトルとした「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」というフレーズは、かつてどこかで、ふとぼくの目にとまった読み人知らずの言葉である。過去はいつも新しいという謂は、カメラマンであれば当然の日常感覚であり、未来がつねに懐かしいという謂も、きたるべき未知の時間や風景は、いま街角の片隅のそこここに、予兆となっているという日ごろのぼくの実感である。
未来はとめどなく現在に流れきて、現在は瞬時にして過去へと流れ去っていく。つまり、いまの時間との交差なくして過去も未来もありえないし、逆に、過去と未来の照合なくしていまという時間もありえない。過去はけっして過ぎ去りし懐かしき日々ではないし、未来もけっして体温希薄な夢の領域ではないというのが、ぼくの時間に対するとりあえずの思い込みである。
上記の文章は「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」からの引用。