「忘却のしかた、記憶のしかた」 ジョン・W・ダワー

本の話

本書の帯には『敗北を抱きしめて』の著者による最新の論集とある。実際に論文が書かれた年代は一番あたらしいもので2005年。既出論文に著者による解題が新しく加えられており、訳書には著者による「日本の読者へ」がある。第一章「E・H・ノーマン、日本、歴史のもちいかた」が抄録で、第二章「ふたつの文化における人種、言語、戦争」は同じ著者の『昭和』からの再録。第一章は全文読みたかった。そのような人は原書を読めということだろう。

比較的短い論文・エッセイが多いので物足りなさを感じるが、著者の姿勢は一貫している。『敗北を抱きしめて』を読んだとき、アメリカ人で日本の近現代史を専門とするのは珍しいと思った。著者が日本の近現代史を研究しようとしたのはE・H・ノーマンの存在が大きかったらしい。日本では著名なE・H・ノーマンも北米の研究者間では「忘れられた思想家」というのも意外な感じがした。管理人は丸山眞男さんの著作でE・H・ノーマンを知ったのだけれども。

歴史学では同じ資料を用いても、結論が全く異なるということが起こる。それも第二次世界大戦のような比較的最近のことでも起こるのは不思議と言えば不思議なことだ。何を記憶し、何を忘れるかで歴史認識が変わってくるのだろうか。吉田元福島第一原発所長が亡くなられたとき、震災前に津波対策(というか外部電源の浸水対策)を当時原子力設備部長として先送りしたということはマスメディアで報道されることは管理人が知る限りなかった。報道によれば吉田元所長は「日本を救った英雄」ということらしい。日本において、語り継ぐ戦争と言えば、被害者としての経験しかクローズアップされない。広島・長崎への「新型爆弾」投下による被害の甚大さが被害者としての記憶を一層強くし、東南・東アジアへの侵略への免罪符というか加害者としての記憶を忘却する触媒となっていった。何を記憶し続けるかが問題だ。

 即時に伝わるコミュニケーションが主流のいまの世界において問題なのは、メディアが何を取り上げ、ひろめるのか、ということだろう。そして日本の歴史と記憶にかんするかぎり、メディアが集中するのは予想どおり、植民地と戦時の罪に対する公式の謝罪をなし崩しにする、たゆみのないキャンペーンについてなのである。中国と韓国で近年、反日感情が険しい崖のように高まっていることは、嘆かわしく、憂慮すべきだが、驚くことではない。日本のネオ・ナショナリストの政治家がどんな反論をしようとも、帝国日本によってアジアの隣人が経験したことを理解するため、過去を厳正に調査することに真剣な関心をしめした者は、彼らのうちにはほとんどいない。
こうした類の愛国的な偽りの歴史には、ひねくれた矛盾がある。公に宣言する目標は「国家への愛」をうながすことでありながら、一歩日本の外にでてみれば、そうした内むきのナショナリズムが日本に莫大な損失をおよぼしてきたことは歴然としている。それは、戦争そのものによる害とはちがって、日本の戦後のイメージに、消えない汚点を残すのである。中国人や韓国人の激昂した反応は大きな注目を集めるが、それは彼らだけにかかわる問題ではない。わたしたちはアメリカでも英国でも、オーストラリアでも欧州でも、日本の信頼性が浸食されるのを目にしている。国連ですら、批判の合唱に加わった。
日本が1952年に独立を回復してから60年が過ぎたが、その日本がいまも、近い過去と折りあいをつけて、隣人や盟友から全信頼をかち得ることができないことは、深く悲しむほかない。

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