「余りの風」 堀江敏幸

本の話

白いテクスチャーのカバーにただ著者名と題名があるだけの簡素な装丁。本書には主に文庫本や選集の解説文が収められている。帯には批評的散文集とある。堀江さんの本を読むのは本書が初めて。ドアノーの「不完全なレンズで」を読んだ時、翻訳者に興味を持ったがすぐに著作を読むことがなかった。本書を読んでみて、内容よりも文体のほうに惹かれた。というのも取り上げている作家が管理人の読んだことがない作家が多かったため。

表題となっている「余りの風」は『小島信夫批評集成』の解説。小島信夫は血肉化されるべき概念になってしまった表現できない「余り」を書こうとして苦しむ。「余る部分を余る部分として色々書かなければならない」とき、その余りを生かすのは全体である。

 全体に流れているなにか大切なもの、書いている本人も気づいていない、豊饒で不気味な「余り」を感じさせるるもの、それが小説世界を形づくる。把握できない全体があってはじめて細部の魅力が生まれ、そこからさらにはみ出してくる「余り」が見えるようになる。

語っている人とその内容との距離は、全体のなかに生じた「余り」によって帳消しにされ、拡大されていく。あとがきで著者は「余り」について次のように述べている。

 なにが消えて、なにが消えずに残ったか。なにを残そうとして、なにを残せなかったのか。原稿用紙何枚という指定によって表現された作品には、形にならなかった断片、もしくは形にできなかった具体的な「余り」が隠されていて、一見きれいに整えられた最終形態においても、それが下支えになっている。手書きが当たり前だった時代の作品が、つねにそうした「余り」を抱えていたと言いたいわけではない。原稿の反故という物質としての「余り」が思考としての「余り」と結びついていないかぎり、紙のうえに書かれただけで活字にならなかった言葉の群れは、仕込みの力にもならず、虚しく捨てられていくのである。

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