「詩人の旅」 田村隆一

本の話

「荒地」の詩人が、金色のウィスキーを道連れに旅をした紀行エッセイ集。とにかく詩人は車中ではウィスキーを飲み、喉が渇くとビールを飲み、夜の宴会では地酒を飲む。旅の移動は列車が多く、北海道へはフェリーで行くように急がない旅が多い。同行する若い友人との会話は、内田百閒の「阿房列車」を思い起こさせる。軽妙でユーモアたっぷりの文章で面白い。こういう文章を書けないと詩人として生きていけないのだろうと思う。

若狭は、詩人が敗戦を迎えた地。詩人は鹿児島航空隊で昭和19年の2月から9月まで予備学生の教育を受け、その後琵琶湖畔の海軍練習航空隊に配属される。この時、詩人はいずれ玉砕すると思い、経理課から前借りをして京都でせっせとお酒を飲んでぶらぶらしていた。そのため詩人は死体一つ見たことも無く、空襲の怖さも知らなかった。詩人は昭和20年の7月と8月は若狭湾で過ごす。午前中は山を歩いて陣地探し、午後は美しい日本海で泳いでばかりいた。8月15日の静かな敗戦でいちばん仰天したのは海軍に3ヶ月分の給料の借金ができた詩人と月給を前借りさせてくれた経理課の係官だった。

《中略》琵琶湖とその周辺は、七世紀の大津京から中世、戦国時代にかけて、まさに歴史の宝庫だ。しかし、ぼくの目は、ぼく自身のまずしい「戦争体験」にさえぎられて、「歴史」を見ることができない。まして、三十年まえの「戦争体験」など、ぼくにとっては、つい昨日のことだ。ぼくの目に見えた比叡山の稜線は、信長が焼討ちにした延暦寺の「歴史」でもなければ、現在、ロープウエイとケーブル・カーによって頂上までつながれている「観光」ルートでもない。大戦末期、人間爆弾の特攻兵器として登場した「桜花」のロケット基地としての限定された空間なのである。そして、比叡山と名づけられた八四八メートルの山塊を限定したものこそ、歴史の力であり、時代の枠組であり、日本近代化の悲劇的な文化そのものなのだろうか。そして、ぼく自身がかかえこんでいるまずしい「戦争体験」は、まだ「歴史」のなかに入っていない(歴史によって、まだ許されていない、言うべきか)。

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