「月」 辺見庸

本の話

2016年7月26日未明に相模原市の知的障害者施設で、16人が殺され26人が負傷した事件が起こった。犯人は元職員の男性だった。犯人は施設職員は殺さず、寝ている重度障害者だけに声かけて返事のない障害者を次々と刃物で刺していった。犯人は「重度障害者の安楽死」を実行したと供述した。

この事件を知ったとき、人々の心の奥底に巣くう黒い欲望を実体化する人間が必ず現れると管理人は思った。この事件後にネットで「よくやった」と書きこんだ少なからずの人たちがいた。ある被害者家族は匿名インタビューで「ほっとした。もしかしたら自分がやっていたかもしれなかった」と答えていた。

本書は相模原障害者施設殺傷事件に着想を得た小説。管理人が日本の小説を読むのは久しぶりだった。ネットで「月」に関する著者のインタビューを読んで購入した。読後、きれい事だけで済まして、臭いものに蓋をする世の中で、「あんた達は相模原障害者施設殺傷事件の犯人とたいして変わらないよ」と指差された感じがした。

前半は障害者の「きーちゃん」の独白が続いて、フォークナーの「響きと怒り」一部と同じようにさっぱりわからなかった。後半になると「さとくん」の行動が中心となり、事件の様子がわかってくる。なぜ自力で動けなく目が見えない「きーちゃん」が「さとくん」の行動がわかるのかは謎。

「さとくん」は「きーちゃん」のいる園で働いていたが辞職する。その後、「さとくん」は世直しの準備をする。「心失者」はひとではないので、「心失者」を殺しても殺人ではない。「さとくん」は園に侵入して「あなた、こころ、ありますか?」と訊ねてから入所者を殺していく。入所者を殺すのは「みんなのこころの声です。こころのかたすみで願っているのです」と「さとくん」は嘯く。

 じぶんがにんげんかウサギが、生きているのか死んでいるのか、どこにいるのか、なぜいるのか。幸せか不幸か・・・も知覚できない、入所者さま、患者さま。あまたに顔に首に手脚、性器、指・・・にんげんのかたちをしているだけで、ただ、それだけで、だれもが同等で同格のにんげんといえるのか。セイタカアワダチソウにからまり、風になびく、うすよごれたビニール紐にどんな価値があるのだろう。ひからびた痰、こびりつく唾に、どんな意味があるのか。なんねんもなんねんもたれながしの、たんに息するだけの物体。遷延性の意識なきもの(永遠の’心失者’)も、ふつうのにんげんといえるか。
ほんとうにかれらは生きたがっているのか。存在をのぞんでいるか。存在の継続を。存在という一般的習慣を。存在という惰性をねがっているか。ねがうもねがわないもない。こころがないのだから。かれらにも人権があるのか。人権ってなんだ?存在権があるか。生存権はあるか。<ある>と無責任にいいはるインチキ学者たち。<ある>ということに、べつにじぶんの命なんか賭けちゃいない。<ある>ということによって、意識がたかいふりをするだけのれんちゅう。’心失者’を施設にあずけっぱなしの家族。おくびにもださないけれど、内心は、はやく消えてくれればいいのにとおもっている親、兄弟。ごくたまにみまいにきて、きもちが動揺し、<これでもにんげんか><にんげんとはなにか>とかちょっとだけ真剣に悩み、自問したふりをして、よくじつにはけろりと忘れて、テレビのバカ番組をみてゲラゲラ笑ったりするご家族さま。

最後、「さとくん」は「きーちゃん」のもとへ向かう。血の虹を見ながら。

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