「ゴヤⅣ 運命・黒い絵」 堀田善衛

本の話

本書を初めて読んで挫折したときから20数年たって、読む通すのに苦労したがやっと全巻読了。本書ではスペインの歴史的な記述が少なくなっており、ゴヤ晩年の作品の評論がメインになっている。

本書で印象に残ったのは「黒い絵」の章。ゴヤは「聾者の家」と言われる別荘をマドリード郊外に建てる。1820年から1823年、ゴヤが74歳から78歳にかけて食堂と応接間に絵を描いている。食堂に『わが子を喰うサトウルヌス』の不気味な絵を描くとは正気の沙汰とは思われない。ゴヤは「理性に見捨てられた想像力は、不可能な妖怪を生む。それが合体すればこそ、芸術の母となり、その奇跡の源泉ともなるのである」と書いている。その他の絵も不気味なものばかりで、このような絵に囲まれて食事をするのは気が進まない感じがする。

「黒い絵」と呼ばれる作品は、誰かに注文されたものではなく、売りにだすためではなく、成功する必要もなく、人の賞賛を得るためのものでもなかった。彼は描きたいからこれらの絵画を描いた。ゴヤはこのような内的自由を得るために半世紀をかけて稼いだ金をつぎこんで家を建てなければならなかった。

 孤独、聾であること、病気、老齢、恐怖、死-これは要するにどれ一つをとっても危機的な事態であり、すなわち彼の自由がもっとも自由に行使されるのは、もっとも危機的な状況においてこそであって、その他ではなく、その危機的なものが彼の天才の全的発揮にもっとも適合していたという事実は、文学をも含む近代芸術全体の性格を、あるいはその不幸を、いち早くここに顕現提示したものと言えるであろう。

「聾者の家」二階のサロンに描かれた絵で、もっとも不思議なものは砂に埋もれた犬の絵。犬といっても顔というか首から上だけで、四肢が描かれていない。この犬は斜め上をじっと見つめている。何を見ているのか絵だけからはわからない。現在見ている「黒い絵」は壁から剥がして修復したもので、オリジナルとは異なる部分があるらしい。「犬」の絵についても、犬の前に巨人が立っていたという説をとなえるひともいる。建物自体がなくなっている現在、推測するしかないのだが。「黒い絵」のテーゼとは何だったのか。

 彼が、長い生涯を通じてのはじめての自由な制作、彼自身のために、彼自身を表現する制作において、彼はあたかも舵も、船そのものをさえ放り出して、想像力のなかでの荒天とその怒濤の波しぶきを壁に砕け散らせたかの観があった。
それらは、彼が長く苦闘をして来た、彼自身の想像力が生んだすべての悪夢そのものであった。
悪夢-しかしそれは創造的な悪魔であり、「芸術の母となり、その奇跡の源泉」となる悪夢のすべてであった。従って、そこには当然自然に、無意識への傾きがあり、如何に人間年老いても決して飽き足りることのない情念と欲情もが燃えさかっていた。
描かれたものすべては、彼の長い人生における、現在にまで尾を引いて来ている里程標であり、かつは、長く理性によって舵をとられ抑えつけられて来ていたものの解放でもあった。それが、壁面に爆発しているのである。彼は、あまりに長くかかったその解放を、これもまたジグザグの道を通って、かつてあるときは十七世紀風の画法に戻ったり、あるときは二〇世紀にまで突っ走たりもする道を通って来た、いわば長すぎた成熟過程をもつ技術によってなしとげたのである。

これで評論「ゴヤ」とのつきあいも終わりとなった。本物のゴヤ作品を見に行きたいがいつになるかわからない。

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