「定家明月記私抄」 堀田善衛

本の話

引き続き堀田善衛さんの作品を読んでいる。「定家明月記私抄」は学生のころ途中まで読んで投げ出した記憶がある。藤原定家の「明月記」は漢文で書かれており、書き下し文でも読むのが大変だし、内容も波瀾万丈の話があるわけでもなく、朝廷の有職故実や昇進の話が多かった。今回も読むのに時間がかかったが最後までたどり着けた。

本書は、定家の48歳までの「明月記」を取り上げている。「明月記」は定家が19歳の時から始めて、約60年ちかく書き続けた日記。定家の性格せいなのか、日記にあまり面白いことがらがでてこない。より上の官位を得るために奔走し、収入を増やすために腐心し、自分の病気や子供の病気を気遣い、朝廷の官吏として宴やら遠出に付き従う。日記には着るものや色、宴にでてくる料理や器がどんなものか事細かに書かれている。望む官位を得られない時の愚痴など読んでいてもいやになる。後鳥羽院が「定家は左右なき物なり」つまり定家はどうしようもない頑固者だと書き、折口信夫が定家を嫌っていたのも頷ける。

管理人が本書にでてくる人物で一番魅力を感じたのは後鳥羽天皇。後鳥羽天皇は三種の神器なしで即位した。神器は安徳天皇が持ち去り、平家滅亡とともに瀬戸内海に沈む。その後鏡と璽は出てきたことになったが、剣だけは出て来なかった。後鳥羽天皇には半端な天皇であるという意識があったらしい。

 後鳥羽に、自分が剣を持たない、半端な天皇であるという意識が強烈にあったことは、臣下にも反映して、慈円は、「コノ宝剣ウセハテヌル事コソ、王法ニハ心ウキコトニテ侍レ」(愚管抄)と逆証をしているのである。剣を欠く統治者というものが在り得るか。定家もまたやがてそのことを書くであろう。
 仏法の末法時に入っていたこと、二皇併立のために神器なしで即位をした天皇、この両者相まって末法、末世意識が朝臣をはじめとして一般に滲透しなかったとしたら、しないことの方が不思議というものである。後の北畠親房の神皇正統記なども、この宝剣喪失によって、後々の天皇が半端なものであるとされることを恐れ、その合理化に大変な努力を強いられている。
 こういう危機に際して、如何なる為政者もがほとんど絶対に気付かないことは、朝廷などというものがなくても、人民は永遠に存在し得るという一事である。

「定家明月記私抄」はバルセロナで書かれた。スペインで定家について調べるというのは何か不思議な感じがする。関連する書籍は日本から送ってもらったのだろうか。今と違ってインターネットが発達していなかった当時、資料を集めるのは大変だったと思う。それではなぜ著者が定家について書くことになったのかについて、著者は次のように述べている。

 定家はほんの狭い範囲の歌壇人であり、大それた一大事件を惹き起こしてくれたりする人ではない。歌人であり、同時に官僚である。和歌という、相和する歌という根底からすれば、個性を発揮し自由を追求するという念慮からも遠く、狭い範囲で歌人たちがお互いに、イデーをとりあい、交換し合い、されば、人と人との絆ばかりの日本社会の典型のなかに潜り込んでいるようなものである。
 かくて和歌もまた芸能の一つであり、これをめぐる人々が、これまた自由人というたぐいの人々ではなく、すべて宮廷関係者であってみれば、その存在自体が人間社会にとっての一つの特異点である宮廷以下、様々なスキャンダルを惹起してくれて、私は芸能週刊誌を編集しているが如き気持ちにさせられることもあった。この時代にもしテレビジョンがあったとして、そのコメンテーターになっているような気のしたこともあった。
 しかし、人は完璧な出家遁世者-それは在りえない-というものでない限りにおいて、出家遁世者もまた、時代に生きる人であり、その他ではありえない。
 私はやはり、この先も定家氏とともに書き続けるであろう。まして彼が十九歳の少年として明月記を書きはじめ、戦時中にあって暗澹たる心境にあった私を励ましてくれて、いまでは定家氏のほうから次第に現在の私の年齢にまで近付いて来てくれているのである。

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