「悼詞」 鶴見俊輔

本の話

鶴見俊輔さんが亡くなられた直後、NHK教育テレビの追悼番組を見ていたら「悼詞」が取り上げられいていた。まだ読んだことがない本だったので、amazonで購入しようとしたところ、取り扱っていない本だった。出版社のウェブを見たら、書店での販売をしてないと書いてあった。確かジュンク堂札幌店で見たような気がしたので、ジュンク堂札幌店へ行ってみたところ「悼詞」がまだあったので購入した。本書にはISBNの番号もバーコードも印刷されていない。

本書は125人におよぶ人びとへの追悼文をまとめたもの。最後のほうに、近親者にたいするものがある。125人には「思想の科学」の関係者が多い。赤尾敏の追悼文もあり、自分の立場と違うひとでも全否定しない著者の姿勢が窺われる。河合隼雄の追悼文には○○という伏せ字?があるのは発表時からそうなのか本書に収めるときに修正したのかわからない。

人間は自由に、自分の感じることを表現するのが、まともに生きるということだと言いつづけた岡本太郎。日本人に幼なじみがいるからマンハッタン計画にくわらわらなかったブライス・デウィット。三島由紀夫自死の知らせを聞いたときにうろたえ、著者は子どもを連れて北野天満宮に出かけ、電話で感想を聞かれるのを避けた。小田実の死をきいて、ながいあいだ一緒に歩いてきた、その共同の旅がここで終わることがないと著者は思う。埴谷雄高の気配の感覚について著者はつぎのように述べている。

 自分の考えていることは、対象とかかかわりのない、妄想ではないか。それは、考えることのはじまりから、いや人間よりも古くから、あっただろう。その気配の感覚をのりこえて、考えたことだけを言語にしてのこすのが普通の哲学者の流儀である。しかし「私は私である」という、もっともひかえめで確実な言明をしてさえ、心中にはそれはうたがわしいという感じがのこっている。
 六十年近く前にきいたバートランド・ラッセルの講義で、「すべてをうたがう」という言説は、論理的にはなりたたないが、そう信じてはいても、すべてはうたがわしいという一瞬の感情のひらめきはさけがたい、と彼は言った。そのとき、ラッセルは七十歳に近かったが、九十八歳まで生きても、自分の完成した数学の記号論理学へのくりこみ体系に対してさえ、彼はそういう気配の感覚をたもっていたのではなかったのか。
 「AはAである」という自同律をうたがわしく感じる、この気配の感覚に埴谷雄高の哲学の起源がある。この自分の頭を使って考えることの他に、別の考え方があるのではないか。

いちばん印象に残ったのは著者の母親に関する文章。最後にあるので一層印象深い。著者の非行時代は、アメリカへ行って終わる。著者の非行は、母親との闘争の結果だったようだ。盗み、家出、女性関係、自殺未遂、3度の放校、中学2年で退学。成績も平常点はビリに近いところ。父親が息子をアメリカへ留学させることにより、母子の闘争を休戦させる。著者は、今となっては教育の上でどんな学校にもまして母に世話になったと思っていると述べている。

 どんな偉そうに見える人でも一皮むけばみんな偽善者だという思想に、私は、どんな時にもくみすることができない。それは、どういう角度から接しても偽善者でなかった母の姿をそばで見ていて、その偽善者でないことに閉口して育ったためだ。
 女は駄目だというもう一つの普通にきく考え方にも、私はくみすることができない。それは、私が、うまれおちた時からおそろしい女に接して来たからだ。
 他の人にとってもそうかもしれないが、私にとっては、人間の問題というのは、母親の問題だった。母とのつきあいに悩んだので、人生に絶望したと言っていい。しかし、どんなに悩んでいた時でも、母が自分を愛していることに確信をもっていた。自分は、一生分の愛情をうけたと思っている。

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