「わたしの土地から大地へ」 セバスチャン・サルガド / イザベラ・フランク

本の話

本書は、セバスチャン・サルガドにインタビューしたイザベラ・フランクがまとめたサルガドの自伝。セバスチャン・サルガドのドキュメンタリー映画の公開に合わせて翻訳が出版されたと思われる。翻訳のせいなのか、インタビュアーのせいなのか分からないが、首をかしげるような箇所がいくつもあった。もし原書で読めるひとは原書を読んだほうがよいと思う。

「動物はバカで脳みそがない」というような表現があったり、「デジタルで撮影して銀でプリントした」「コンピューターのスクリーンでは編集できなない」「白黒なら、フィルムで作業しても、一枚の紙に一本分まるごと複製される」「白黒銀板の編集するときは、出来事が撮影のときとまったく変わらない強烈さで蘇った」等々はどうのような意味なのか。

白黒銀板は何のことかわからない。地味な発色のコダクロームを色鮮やかといっているのも何だかおかしい。銀でプリントしたというのは、レーザー露光によって印画紙にプリントしたことなのか。デジタルデータからフィルムをおこして、銀塩プリントを作成したということだと思うが。現在ではデジタルデータからレーザー露光によってプリントすることで、銀塩プリント並みの品質になっている。ポジフィルムはマウントせずにスリーブで現像依頼すれば、ライトボックス上でルーペを使って確認できる。海外ではスリーブ現像というのはないのかもしれないが。

ということで、今福龍太さんの解説から引用する。

 サルガドのすべての写真は、いかなる写真家もレンズの背後においてみずからを守ることは不可能であるという厳粛な事実を暴き出した。そして、悲惨さ貧困といった出来事が、いまやイメージ商品としていかに濫用されつくしているかを厳しく問いかけた。そうした本質的な批判を行った者が、写真という社会的制度の上に安住してきた写真家や批評家たちの攻撃にさらされたことは、その意味では必然でもあったのだ。すでに述べたように、サルガドの「戦闘性」は、写真という制度が成立する消費的な根拠すら本質的に問い直す、途方もない思想的ラディカリズムを秘めていたからである。
 とりわけ内乱と殺戮のルワンダでの長期にわたる取材が、彼の内面をどれほど傷つけ、人間性への信頼を喪失させ、意識の崩壊の瀬戸際まで追い込んでかは本書が証言しているとおりである。行きずりの写真家に、そのような自己崩壊の危機が訪れることはありえない。そして、人間性への絶望が彼を追い込んだ、写真家からの引退という決意を翻した力が、故郷の農園の再生であり、自然の生命力そのものの、いかなる悲惨さにも屈しない強靱さへの信頼であったことは途方もなく重い。彼はあらためて、人類が、自然の、野生の生命力を受け継ぐ一つの「種」であることを再発見したのである。

セバスチャン・サルガドの写真展は何度か観たが、あまりに大写真のため自分には無関係な感じだった。管理人は武田花さんの「眠そうな街」のような写真が好きだし、そんな感じの写真を撮ろうしているのだが・・・・

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