「後美術論」 椹木 野衣

本の話

美術出版社が倒産したというニュースを知って「とうとう『美術手帖』も終わる時が来たか」と思った。その美術出版社が倒産直前に出版したのが本書。ジュンク堂札幌店で購入したとき、店員さんに「美術出版社の本は入ってくのですか」と聞いたところ「入ってきませんね。どうなるのかいまところ分からない状況です」ということだった。その『美術手帖』は存続していくようだ。

著名な芸術家の展示になると、平日でも長蛇の列になるほど日本の美術館の入場者数は多く、世界で一番だそうそだ。それでも美術出版社が倒産するのはメディアの変化・進歩が著しいためだろうか。本書の題名となっている「後美術」とは、美術のジャンルの破壊し、その事態を積極的に推し進め、同時に記述できる批評の言葉を見つけ出そうとする総体のことを指すらしい。「らしい」と書いたのは「後美術」という言葉は本書を読むまで知らない言葉だったから。「後美術」と言う言葉は美術批評のジャーゴンとして通用しているのかも管理人はわからない。本書の帯には「音楽と美術の結婚」とあるのもジャンルの破壊を意味するのだろう。ここでの音楽とは主にポピュラー音楽。

600頁を越える本書は意外とスイスイ読めたのは、取り上げている音楽が主にロックで、しかもだいたいリアルタイムで聴いたことがあるグループだったためだ。ピンク・フロイドをもっと取り上げても良かったのではとか、パンクなら頭脳警察も取り上げろとか、原発なら清志郎だろうとか思ったけれども。美術批評門外漢なので美術のジャンルについてはそんなものかという感じだった。コンセプチュアルアート、ミニマルアートやシミュレーショニズムの違いが管理人にはよく分からない。横浜トリエンナーレは初回から観覧しているがジャンルの違いさっぱりわからなかった。

本書で面白かったのは「地獄と髑髏」の章。「地獄と髑髏」の終わりのほうでジャズのことを書いているのが何か唐突な感じがした。最後のクラフトワークとPerfumeとの論考は無理をしている感じがした。原発が未来のミュージアムというのは理解できなかった。日本の原発が海岸のすぐ近くにあるのは、二次冷却水として海水を使うからで、原力発電PR館に置いてある資料や展示で説明していると思うけどねえ。本書を読むとクラフトワークが現代美術の大巨匠のようだが管理人には判断できない。

 人間と機械と音楽からなるクラフトワークの三位一体は、後美術論の核心を突くものだ。美術作品を無批判に自律的な存在と考えず、それをつくり出した作者との不分離な生との一体性から考え、両者を媒介する資本やメディア、そしてテクノロジーを通じて旧来の「美術」を再定義するのが後美術の役割だからだ。クラフトワークが、みずからの存在をマネキンからロボットへ、さらにはCGにまで置き換えることが可能な媒介者としてとらえている点において、かれらこそギルバート&ジョージを継ぐ、新たな時代の「歌う彫刻」にほかならない。そしてそれは、「デュッセルドルフの日本人」から逆転して発想された美術のアート化、すなわちミュージシャンをアーティストと同次元で語ることを可能にする、日本語における「アート」の拡張に多くを負っている。

専門家による本書の書評をネットで探してみたがまだ見当たらなかった。個人的には「渋松対談」で取り上げてほしいと思っている。

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