「写真的記憶」 西井一夫

本の話

写真について考えるため写真論を読み直している中の一冊として本書を再読した。本書は主に「写真の会」会報に掲載された写真に関連する同時代批評を集めている。残念ながら本書は絶版状態で新刊での入手は困難である。

本書に収められている文章が書かれている時期がちょうどバブルが始まったころから、バブルが弾けて出版不況に陥ったころにあたり、後半は写真集の批評が減る。写真集の出版は1991~2年頃が頂点のような気がする。あの頃は次から次へと写真集が出版され、写真展も多かった。絶好調の荒木経惟さんなんて「月刊アラーキー」と言われるぐらい写真集がでて、そのうち「週刊アラーキー」なるんじゃないかと思った。

「写真の会」会報に書いているせいか、戯作調の文章が多い。歯に衣着せない批評なので色々な軋轢を生んだようだ。江成常夫さんとのやりとりは凄い。西井さんは批評に足らないと思う写真家は取り上げないので、江成常夫さんの写真についてはなにがしかの評価があったのかもしれない。「真実は人を傷つける」ということなのか。「写真の会」会報に書いた批評のため、「絶交され、口もきかず、顔をそむけられ」友人を多く失ったそうだ。

 これまで、いろいろと私は写真作品について書いてきたが、最近ようやく簡単な事実がわかった。写真家は文章がまったく読めない人が大半だ、ということだ。もちろんどこにも例外はある。しかし、経験からすると、そうとう本を読んでいる人でも、ことが自分の作品になるや、もういけない。明確に褒め言葉を使っておらず、のらりくらりと評価を先送りしている文には、すぐ、褒められていない、という反応で、しばしば怒鳴り込んでくる。褒められたい、という愛情乞食ばかりで、ほめもしないしけなしもしない、という留保の文は認めない人が圧倒的だ。そりゃ褒められリャ、気分いいだろうが、自分の作品について、赤の他人が頼まれもせずになんだかんだと、ああでもないこうでもないと、考えこねくり回し書いてくれる、そのことだけでまず感謝すべきだ。一応、批評する対象に選ばれたのだ。魯迅が言っているが、最高の軽蔑は目玉一つ動かさず無視する沈黙である。非難でさえ、虫よりはるかに高い評価をすでに与えている。そこのところを写真家はもっとシビアに考えないとだめだ。

著者は毎日新聞社に勤めながら写真に関わる仕事もこなしていた。「カメラ毎日」編集長として「カメラ毎日」休刊にしたのは、少しでも赤字を減らしたいという会社の休刊要求に、カメラにではなく写真にかかわりたいという気持ちが強く、これをいい理由として無理な雑誌造りから逃れようとい気持ちがあったから。写真に対してあまりにも真剣な態度は自身を追い込むのではないかと思われた。実際、1995年には鬱病になり、年中精神的に不安定で落ち着かない気分が続いたそうだ。著者はシリーズ「20世紀の記憶」全20巻を立ち上げ、2000年に完結したときやっと毎日新聞社を退職しフリーになる。しかしながら食道癌が見つかり入院。退院後、奈良吉野に引っ越すが癌が再発し、2001年に死去。本書の最後のほうにある「1996年への葬帰」という文章で「50歳を越すと、突然、あとわずかの余生しか時間がないことに気づく」と書いてあり、まるで死を予感している印象がある。今読むとこの文章は著者の遺言のような感じがする。この「1996年への葬帰」から長いが引用する。

 近年の写真の流れは、ヒロミックスとか長島有理江とか野村佐紀子とか自分の身の回りを撮った私的で感覚的な自身へのナルシシズム的な感性を全面的に信頼した安易なる自己肯定者たちばかりが、もてはやされ、それにはそれで、メーカーサイドからする流行の捏造の気配があろうし、若い者に媚びる卑しさもある。『写真のよそよしさ』のあとがきで触れたが、こうした他人や世界や社会に関心を持ちえない異様な自己中心主義者たちの写真には、私は退廃しか感じられない。私の感性が病気なのかもしれない。ともあれ、私は、この手の写真は好かない。見る気がしないから、ほぼ無視している。この種の他者への積極的無関心が、たぶんナチスの台頭してくるときにドイツに覆っていた空気に通じているのだ、と私には感じられる。だから余計に憂鬱になる。この手の写真にはおおむね意見がない。なにも表明していない。意見はもっぱら個人のものであるが、私的なことしか興味を示さぬ人たちには、意見が欠落している。そこにあるのは、「世論」という意見の死である。意見の死こそ無関心の本質にほかならない。私的生活にへの閉じこもりは、このめちゃくちゃな社会に生きていかざるをえない者の当然の権利にほかならないが、その権利がいっそう社会を少数の支配に都合のよい状態に下支えする。大衆社会では、人はlonelinessをただ一つの共通感覚としている。つまり、皆が皆が愛情乞食なのだ。すぐに褒められたがる。privateというのはもともと、欠如している、という状態をいい、つまり、人が自由を感じることのできるpublicな空間がないところ、をいう。私的ということは、公的空間の欠如を意味していた。私生活に欠けているのは他人である。私生活者のすることは、他人にとっては意味も重要性もない。私生活者に大切なことも他人には関心がない。したがって、私生活者同士の間には互いの無関心だけがあて、どちらも相手は自分にとって利用するためだけの「あれ」「これ」の物の存在でしかない。そこでは、私とあなたという関係が成り立たない。写真を撮っても、相手はあなたの写真になんの関心も示さないというのが、私生活者の行為の構造である。そもそも、写真を撮って他人に見せる、という行為は、私生活者の行為ではない。そこに根本的な錯誤がある。だから、この手の写真は見せられる必要のない、どうでもよい写真なのである。

新着記事

TOP