「明るい部屋」 ロラン・バルト

本の話

本書は15年近く前に読んでおり、今回再読した。以前に読んだときの記憶では、バルトの母親の写真についての印象が強かった。今回読み直してみて、本書の1部の記憶がすっかり抜けていることに気がついた。「ストゥディウム」と「プンクトゥム」という言葉も忘れていた。10代や20代に読んだ本のほうが記憶に残っているのは老化現象ということなのだろう。

写真に関する第一の要素として、道徳的政治的な教養を仲介して生ずる一般的関心「ストゥディウム」があり、第二の要素はこの「ストゥディウム」を破壊しに写真の場面から矢のように刺し貫きにやってくるもの「プンクトゥム」がある。ある写真のプンクトゥム」とは、その写真のうちにあって、私を突き刺す偶然なのであるとバルトは述べている。この写真の2つの要素についていろいろ述べた後、「私はこれまで述べてきたを取り消さなければならなかった」とバルトは1部の最後を締めくくる。読んでいるほうは何なんだと当惑してしまう。

2部に入り、バルトは亡くなった母親の写真について語りはじめる。母親の「温室の写真」から発見する。「写真」の「指向対象」は、事物がかつてそこにあったということを否定できない。それゆえ、「写真」のノエマは「それは=かつて=あった」、あるいは「手に負えないもの」である。そこにこそ「写真」の本姓-精髄があるとバルトはみなした。母親の「温室の写真」にかつての母親がたしかにいたということから写真一般に敷衍することができるのか。

 「写真」が深く掘り下げられないのは、その明白さの力による。映像の場合、対象は一挙に与えられ、それが見えていることは確実である-これとは逆に、テキストや、映像以外のものの近くは、対象を曖昧な、異論の余地あるやり方で私に示すので、私は自分が見ていると思っているものを疑うようになる。映像の知覚のこの確実さは、私が写真を集中的に観察する余裕があるだけに、絶対的である。しかしまたその観察は、いくら長く続けても、私に何も教えはしない。「写真」の確実さは、まさにそうした解釈の停止のうちにある。私は、それがかつてあったということを確認するだけで精根を使い果たしてしまう。誰であろうと、写真を手にしている者にとっては、それこそが<<根源的確信>>であり、<<原ドクサ>>であって、その映像が写真ではないということが証明されないかぎり、この確信は何ものによっても突き崩されない。しかしまた、悲しいことに、その確実さに比例して、私はその写真について何も言うことができない。

本文が翻訳で150頁に満たない小著だが、「写真」についていろいろ考えさせられる。バルト自身が写真を撮影していたどうかは管理人はわからない。「写真」の実践の場では、アマチュアこそ専門家の極致である、というのもアマチュアのほうが「写真」のノエマの近くにいるからと言えるバルトは凄いと思う。

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