「自然、まだ見ぬ記憶へ」 港千尋

本の話

ギャラリー空蓮房で行われている港千尋さんの写真展「心の間」を観てきた。空蓮房は、お寺にあるギャラリーで、予約制で拝観できる。入り口が茶室のように低くなっており、一礼するように入る。中はそれほど広くないが居心地よい空間となっている。予約制なので一人で作品を鑑賞できる。帰りに住職さんと話した。住職さんは美術や写真を学んでから寺を継いだそうだ。商業的なギャラリーではないので貸りることはできないということだった。

本書は「科学の社会論」で、主に生物学が対象になっている。2000年に出版されているため、情報が古くなっている部分があり、科学論の難しいところだと思う。生命に関わる科学は急速に進んでおり、専門家でも専門分野が異なると追い切れない。管理人が学生のとき、「科学者の社会的責任」について色々問題になっていた。科学者は、核兵器開発や遺伝子操作などの研究で社会的な責任を負うべきかという議論だった。

普通、科学者はどんな研究をしても良く、研究自体に善悪はないと考える。問題があるのは研究の成果を利用する会社や政府である。こと人間の生命科学的研究(ゲノム解析、遺伝子操作、クーロン人間等)になると誰が倫理的な判断をするかは微妙な問題である。この手の研究は、企業でも大学でも予算が付きやすく、普通のひとが知らないうちに研究はどんどん進んで行く。自分のクーロンがいれば、臓器移植で拒絶反応は無いし、骨髄移植も簡単で難病でも治療できる。クーロンとはいえ、別の人格を持つはずで、クーロンが「臓器移植を拒否」することもありうる。クーロン人間は極端な例かもしれないが類似の研究は行われているようだ。インドのカースト制と遺伝子分析の研究について著者は次のように述べている。

 遺伝子の分析は、このヒエラルキーのなかに筋を見つけるためにどうしても必要な「知的努力」であり、またそうあらねばならない。神話と歴史を結び、さらに心理学と生物学を結びつけながら、いまわたしたちが求められるのは、その連関のなかに倫理の基盤を探すことではないか。カーストが遺伝的に決定することを肯定するのでも、またDNA分析を否定するのでもなく、それらを包括的に批判し検討できるような新しい倫理基準を探すような対話が開かれることが必要なのだ。インドの事例は、そのような自然科学と哲学の開かれた対話が急務であることを示している。

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