「様式の基礎にあるもの」 佐藤泰邦

本の話

「たましいの場所」は江差線の列車で読んで、本書は札幌からの特急で読んだ。実際は「たましいの場所」より先に読了していたが、ブログに書くのは後になってしまった。本書は5章からなり、最後の章は和辻哲郎論であまり絵画と関係がない論文となっている。他の4章は、本書の副題が「絵画芸術の哲学」とある通り、絵画に関する論文である。他の単行本から絵画に関する論文を纏めているので、それらの本を読んでいるひとにとっては重複することになる。管理人はそれらの本を読んでいなかったので購入した。あとがきには加筆・訂正したとあるけれども、管理人は確認しようがなかった。

本書の第一章は、本書の題名となっている論文でジャコメッティに関するもの。雑誌の企画で、ジャコメッティがルーブル美術館を訪れ、彼が選んだ作品についてインタビューした時の言葉を著者は紹介している。ジャコメッティが選ぶ作品は、西洋絵画伝統の正統を担う作品が少ない。例えばティレントレットの自画像について「私がパリに出て来た時ルーブルで一番好きだった絵の一つはこの絵だ・・・これは頭蓋そのものだ。この目は目であるが、同時に眼窩であり、頭部の構造そのものだ。本当に、ルーブルのなかでこれ以上美しい頭部はない」とジャコメッティは言い切っている。管理人は実物のティレントレットの自画像を見たことが無いので何とも言いようがないが、写真を見た限り「ルーブルのなかでこれ以上美しい頭部はない」と思えないのは画家ではないからだろう。ティレントレットの自画像はジャコメッティ以外でも画家の評価が高いということだ。

ジャコメッティの絵画や彫刻に表現されている人間は、無駄な肉片を削ぎに削いだもので、とくに彫刻は一見してすぐにジャコメッティの作と分かる。矢内原伊作はパリ留学のおり、留学の記念にという軽い気持ちでジャコメッティの絵のモデルになった。ところがモデルになったため帰国が数ヶ月遅れた。そればかりかその後も夏休みのたびにパリまで呼び出され、廃屋同然のアトリエで毎日延々と椅子に座ってジャコメッティのモデルを務め、ジャコメッティの絶望の言葉につき合わされた。その経験は矢内原伊作の著作の源となった。ジャコメッティの矢内原像からは想像ができないようなことが制作途上であったようだ。ジャコメッティにはあのように人物が見えるというか知覚されるのだろうか。あたまの中でどのような変換が行われるのか。美術館で作品を見る時、確かに同じ世界を見ているはずなのに、芸術家はあのように世界を知覚しているのかと管理人は不思議に思うことがある。

 「すべてに似ているし・・・、どれにも似ていない」という表現をどのように理解すべきか。形態の美の深奥を語った言葉であるが、さらには、絵画芸術の世界に限定されたことと見るだけではなく、普遍的な知に関与し得る私たちの知覚の条件一般について示唆を与えてくれる言葉と見ることも可能である。この考え方は、過去に遡れば、プラトンのイデア論に遡ることができるかもしれない。忘却していたイデアを想起することこそが真理の認識であるという想起節のことである。プラトンのイデアも、個々の個体を超えた典型という性格を与えられていた。そして、これは、具体的な個物によって実現され尽くすことができないが、すべての個物にとって下絵として想定せざるを得ない形態という考え方一般につながっていくものであるはずである。そうなれば、それを、カントの『判断力批判』に出てくる「美的基準観念」という概念にまで及ぶものと見ることもできるであろうし、現象学の「間主観性」や「匿名性」の概念、またゲシュタルト心理学の考え片、さらに、すでに触れたギブソンのアフォーダンスの概念に結び付けることができる考え方を示した言葉であると見ることもできるであろう。

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