「極私的60年代追憶」 太田昌国

本の話

書店を巡回していて、本書の装丁が気になり手に取ってみたが購入しなかった。別の日、また本書を立ち読みして「精神のリレー」は埴谷雄高の言葉からきたのかと思い購入。著者の本を読むのは今回初めて。やはり埴谷雄高を読むひとだった。吉本隆明も読むひとだったけれども。本書の元となる文章は2008年6月から2010年9月まで雑誌「インパクション」掲載された。出版されるまでにタイムラグがあり、その間に言及されている人たちが亡くなっていることもあり、”昭和は遠くになりにけり”の感が強い。

60年代追想とは言っても、前後の時代にも言及しているので戦後史という感じが強い。ベトナム、チェ・ゲバラから内ゲバ、東アジア反日武装戦線、北朝鮮拉致問題まで取り上げている。帯には漆黒の時代を切り開くためにとある。漆黒には「この」とルビがふられており、今は暗黒時代なのかと改めて思い入った。著者は吉本隆明を亡くなるまで著作を読み続けたそうだ。管理人は、ある女性誌?にモデルとしてブランドもの身につけている吉本隆明の写真を見てガッカリした記憶がある。太田竜も最後は怪しい集団の教祖のようになっていたとは知らなかった。そう言えば、自然食をどうのこうのと言っていたのを以前雑誌で読んだことがあった。

内ゲバを巡る章では、初めて某党派の機関誌に掲載された「軍報」なるものを読んだ。最初、膝と足首を鉄パイプで殴打する。逃げられなくなった相手の頭部をハンマーでめった打ちにして粉砕する。「屍」になった相手に唾を吐きかける。普通では考えられない殺し方は党派のなせることなのだろうか。管理人が学生の頃、人違いで某党派に襲われたひとの話を聴いたことがあるが似たような感じだった。両膝に大怪我を負ったその人は車椅子を使わなければ外出できなくったということだった。このようなことを機関誌に「軍報」として掲載することの異常さに気付かない「革命」党というのは理解し難い存在だ。

最後の章は、新たに書き下ろされたもの。60年代から半世紀たったいまの社会を「革命」という点から見ると「こんなはずではなかった」社会が目の前にあると著者は述べている。歴史的な事実に基づいて問題提起を行えば、人々の間に浸透しやがて社会的な認識として定着するというのが、かつての私たちが展望していた未来像だった。しかし、ソ連崩壊をはじめとする世界の激動する情勢と共にネット時代を迎えて以降の時代状況は著しく変わった。現代の日本社会を覆っている「現在の無限肯定」の「空気」は、20世紀前半の日本社会にも見られたもので、まさに「歴史は繰り返されて」いる。生きているこの社会にどんな不平や不満があろうと、「社会主義」への希望がなくなり目に見える対抗原理が存在しないと思い込んだところから「現在の無限肯定」の時代が始まったと著者は述べている。

 全体状況の絶望的なること-それは拭いがたく、ある。だが、「中毒」も「惰性」も、差し当たっては、そこに微睡む個々人の力で克服できるものである以上は、集団的なその習性から抜け出す人が、ひとり、また、ひとりと生まれてくれば、よい。そのためのヒントを、私は「60年代」との自己対話を通して、本書の随所に埋め込むことくらいはできた、と思う。<極私的>な追憶が、そこで、協働できる仲間(同志)と出会うことをこころから願う。

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