「宇宙論と神」 池内了

本の話

「宇宙論と神」という題名で思わず購入してしまった。著者の池内先生は、管理人が学生のころ宇宙の研究室におられ、授業も受けたことがあった。酔っ払うと関西弁で饒舌になったような思い出がある。管理人は素粒子の研究室にいたが、あまり交流はなかった。「物理学と神」に続く、宇宙論に絡む神の話。神の話といっても、神の居場所を探す宇宙観の変遷の話である。

管理人は高校生の頃、ブルーバックスの「相対論的宇宙論」を読んで、天文学科へ行こうと思った。ところが、「相対論的宇宙論」のような研究は物理学科のほうで行われるということで物理学科へ進んだ。結局、大学では素粒子の理論を学んだ。本書でも恐ろしく難しいと言われている「超弦理論」の創始者の一人である米谷民明さんが研究室の先輩だったせいか、院生の人たちの間では重力場の量子化の話が盛んにされていた。その話に管理人はさっぱりついて行けず研究者への道は断念した次第。東大に強奪?(と研究室の先輩が言っていた)された米谷さんが使っていたという机を管理人は使っていたのだけれども。いま物理学科がある建物は新しく建て直されて昔の面影はなくなった。

本書の前半からなかばまでは、正統な物理学史というか天文学史である。著者らしいのは、後半のインフレーション宇宙からだと思う。人間の存在を前提として宇宙の状態を決定しようとするのが「人間原理の宇宙論」。この宇宙論が西洋で流行っており、あのホーキング博士もお気に入りということだ。著者が述べているように、この宇宙に人間が存在している条件こそ偶然だと管理人も思う。西洋で流行する理由のひとつに一神教の西洋において、神と手を切りたいと望んでようやく巡り合えたのが「人間原理」だと著者は述べている。「人間原理」には白人至上主義の感じが漂う。

 人間原理をよく考えてみると、人間は理性的であり宇宙を隈なく理解することができる(崇高な)存在として位置付けているのだが、実際には地球に複雑な構造を持つ生物が出現したという事実として人間が使われているに過ぎないことがわかる。であるから、人間ではなくアメーバであってもバクテリアであっても構わないのだ(アメーバやバクテリアの宇宙認識が人間以下であると誰が証明できるだろうか)。よって私は「アメーバ原理」と呼ぶことにしている。そうすると高く崇める原理だと受け取りにくくなるに違いない。人間原理と名付けることによって、いかにも深遠そうに見え、つい気を惹かれてしまうからだ。神から縁を切るという人間原理は、神から見れば子ども騙しの言葉の綾にしか過ぎないのではないだろうか。

現代宇宙論では、ダークマターとダークエネルギーを仮定しなければ観測事実を説明できない。「超弦理論」ではパラメータが11(10)個あり、素粒子を多次元で考えることが一つの鍵となっている。人間は、いまや宇宙空間に展開する多数の次元の中に神が隠れているという加能性へと追いつめてきた。といっても神はいくつもの隠れ場所を持っていて、人間がそこを見つけるのを傍観しているのかもしれないと著者は述べている。

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