「故郷喪失の時代」 小林敏明

著者がなぜいま故郷を取り上げるのだろうかと本書を読む前不思議に思った。取り上げている小説は昔のものが多く現代の小説はあまりない。本書の中で父親との関係も述べており、今までの著作とは違った感じだ。。著者は在独30年あまりで、それこそ望郷の念が生まれたのかと思ったがそれとも違う。『故郷喪失』には福島の原発事故以後、故郷を離れた人たちのことが根底にある。

原子力発電所が建設された場所は殆どが過疎と呼ばれる地域だった。原子力発電所が地域に『金』をもたらすとわかり、人口減少に悩む町村では原子力発電所建設の誘致を積極的に進めた。水上勉の故郷は原発銀座と呼ばれるようなった。道路は立派になり、PRセンターは建てられ観光客もやって来る。原子力発電所の安全神話は揺るがないように思われたが、東日本大震災における原発事故でその神話は崩壊してしまう。もし事故が起きれば『故郷』は遠くで思う場所となり、帰る場所ではなくなる。いくら避難解除されても住む場所ではなくなってしまった故郷は故郷と言えるのか。

『故郷』という主題は現代日本の小説にあまり取り上げられない。現代では都市で生まれ都市で育った作家が多くなっており、大江健三郎や中上健次のような『故郷』のイメージが主題となりにくい。日本全国都市化が進み何処へ行っても同じチェーン店があり街の風景が画一化してしまった。大江健三郎の『森』、中上健次の『路地』もすでに無くなってしまっている。管理人がよく読んだ大江健三郎や中上健次はもう『過去』の作家となってしまったのだろうか。

 ここであらためて、故郷は本当に時代遅れとなって文学の舞台から姿を消していくのかと問いなおしてみる必要がある。答えはむろん否である。それが時と所によって潜伏することはありうる。だが、それはけっして消失しない。
 私は本書を福島の事故から説きはじめた。福島という、それまでどちらかというとあまり目立たなかった日本の一地方が一瞬にして世界中の注目を集めた。その瞬間、ヒロシマやナガサキと同じように、福島はフクシマになったのである。そしてフクシマは大量の故郷喪失者たちを生みだした。その人たちの前で、故郷というテーマは古くなったなどと嘯くことのできる人間はいない。フクシマはただたんにわれわれに忘却されていた故郷を想い出させただけではなく、本気でその故郷と向き合えと迫っている。

「在日」の人たちにとっての『故郷』については、著者が推している尹健次「在日の精神史」を読んでみようと思う。それがいつになるかは何とも言えないが

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