「東北を聴く」 佐々木幹郎

本の話

今月はwordpressの勉強で時間をとられ、普通の本を読む時間があまりなかった。本書は著者が二代目高橋竹山ともに、東日本大震災後の東北地方へ民謡の原点を求めて旅をした記録。初代高橋竹山が若い頃門付けを行った場所も訪れている。二代目高橋竹山とのコラボによる詩の朗読会も被災地で行った。管理人は民謡をほとんど聴いたことががないので、本書で引用されている歌詞だけではメロディが浮かんでことがない唄が多々あった。「会津磐梯山」だけは別だったけれども。

津軽三味線の初代高橋竹山は昭和八年、岩手県九戸郡野田村で三陸沖大地震に遭遇する。この日、初代高橋竹山は「唄会」にでる芸人中間とともに野田村の旅館に泊まっていた。自伝では竹やぶの中を竹をつかまり逃げたとあり、手助けをしたひとのことはでてこない。野田村を訪ねた著者は、初代高橋竹山が逃げるとき手助けをした女性がいることを知る。その女性の遺族によると、その女性は目の不自由な4人の芸人を一塊にして背中を押しながら「波は今にも来そうだ。早くしないと死んでしまう」と思いながら高台に逃げたと話をしていたそうだ。野田村は今回の震災でも大被害を受けている。著者と一緒にこの話を聴いていた二代目高橋竹山は、野田村から出発した牛たちが塩を運んだときの民謡「牛方節」と初代高橋竹山の故郷の民謡「津軽山唄」を続けてうたった。

今回の東日本大震災は、何度も津波の被害に遭っている東北地方の人々にとっても違ったものになった。今までになかった原子力発電所の事故が起こり、大量の放射性物質が拡散しことである。避難をよぎなくされた町村ではいまだに自宅に戻れない多くの人々がいる。原子力発電所の事故処理は先が長い。どんな事態が起こっても、変わらないものがる。それは土地に根付いた唄である。継承していくべきものがある。それは伝統芸能であり、各地の祭りであると著者は述べている。

最後に著者は初代高橋竹山の故郷青森県の小湊を訪れる。翌日、著者は初代高橋竹山の音楽プロデューサー佐藤貞樹が晩年を過ごした夏泊半島まで行った。東日本大震災が起こったとき、著者が一番欲したのは東北の声を聴くことだった。文字ではあらわすことのできない、生活のニュアンスがつまった方言で、地震と津波で失われたものが何であったのか、これから何十年も続く放射能汚染の恐怖と、したたかに向き合うためのことばを探した。そんなとき、著者は佐藤貞樹が著した「高橋竹山に聴く」を読み直した。衝撃を受けたと著者は述べている。

 わたしは東北の声を聴きたいと言いながら、「聴こえるもの」だけ、耳をそばだてようとしていたのではないか。これまで、見えるものと、感じるものと、考えられるものだけ、信を置いていたのではないか。ノヴァーリスは、「見えないもの」「聞こえないもの」「感じられないもの」に信を置き、「考えられないもの」に信を置き、「考えられないもの」のなかから、考えを育てようとしている。
佐藤貞樹が初代高橋竹山の音色から受け止めたのは、このことだった。東日本大震災のあとで、そして見えない放射能汚染水の垂れ流しが続く現在を「考える」とき、わたしはこのノヴァーリスの詩句と初代竹山の三味線音楽を結びつける佐藤貞樹の考えかたに、大きな示唆を受けた。
大震災当時、津波についても、福島第一原発の事故についても、「想定外」ということばが政府からも東京電力の責任者からも聞かされ、メディアでも流行した。しかし逆に、ノヴァーリスをもじって言えば、想定できないもののなかに「付着している」ものこそ、わたしたちは見つめねばならないし、そこで想像力を鍛えねばならないのである。

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