「DISTANCE」 西井一夫

本の話

本棚を整理していたら本書がでてきて、読んだか読まなかったか判然としなかったのでとりあえず読み始めた。読み終わってもはっきりしなかった。本書は買ってから20数年経っており、その間3度引っ越しをし、本も相当整理したのになぜか手元に残っていた。西井さんの写真関連の本は全て読んだつもりだったが、本書は「映画にめぐる断章」と副題に有ったので読まなかったかもしれない。

「映画にめぐる断章」とあるけれど、映画そのものについて書いている文章が少ないのは著者らしい。註が長いものがあり、本文もより長い註に著者が謝罪しているのもあった。なぜ本文中に書かなかったのか不思議だ。本書を読んでいると時代を感じるというか昭和の匂いがする。上述した長い註はロシア革命についてのもので、レーニン、マルクス、トロツキーが登場して今さら革命の話はないのではと思ってしまう。

本書にはナチス・ドイツの絶滅収容所のことがたびたび取り上げられている。最初の章で著者は映画『ショアー』について論じている。日本で『ショアー』が初めて上映されたのは、映画の完成から10年経っていた。映画『ショアー』はナチス・ドイツのユダヤ人絶滅政策関わったひとたちのインタビューがメインとなっている。登場するのは収容所から帰還したユダヤ人、加害者のドイツ人、何もせず傍観していたポーランド人などのひとたちだ。

インタビューに応じた人たちはみな「あの記憶」を出来れば思い出したくない。「あの記憶」は忘れ去ろうとしても忘れられない出来事だった。絶滅収容所から帰還した人たちの中には自殺するひとも多かった。「アウシュビッツは終わらない」を書いたプリーモ・レーヴィ、「罪と罰の彼岸」を書いたジャン・アメリ、「生き残るこ」を書いたブルーノ・ベテルハイムも自殺している。著者は1989年に一ヶ月間絶滅収容所を訪れる旅をしている。収容所について書きたいと述べた著者は2001年に亡くなってしまった。

 私の映画についての文章は、写真について書く時よりはるかに、映画のことではなく、その映画の描こうとしたことや、描こうとした人その人についてになってしまった、と思う。私は映画批評を書くつもりではなく、同時代の映画の観客として、映画を通して時代と社会について私が思うことを書き留めて来た。だから、本書も映画評論集ではない。「Distance」=距離というタイトルもそこに関わる。そう思って、建築家の仕事や、芸術家の作品、果ては美空ひばりまで入れてしまった。自分の書いたものすべてをひとに読ませたい、などとは露も思っていないが、写真とか映画とかの分野、ジャンルなどにこだわらず、本をどのジャンルの書棚に入れたらよいのか、戸惑う、というような正体不明の本が、私の本でありたいと思って来た。何かのジャンルの精神なき専門家ではなく、私は百科全書派的な編集者としてプロでありたいと思っている。新聞社という職場で飯を食って来たからではなく、この短くない年月で、自分が、二十世紀という人類史の最後の時代の年代記編集者として在る、という自覚が生まれたように感ずる。書いているのは、その編集作業の一部として或るマトメであり、二〇世紀年代記の小さなコラムの一つだ、といった気分もある。あまりフロシキを広げぬほうが身のためだ。

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