「おんな二代の記」 山川菊栄

本の話

本書は女性解放運動家として活躍した山川菊栄とその母親との2代にわたる自伝。幕末から第二次世界大戦敗戦まで女性の視点で時代世相が描かれている。管理人が山川菊栄のことをあまり知らなかったせいもありとても面白く読めた。

この母にして、この娘ありという感じだった。母青山千世は水戸藩士で儒学者青山延寿の娘。千世は東京女子師範学校初年度に首席で入学し、開校式のとき明治皇后の前で講義を行う。この時の皇后の服装が十二単にハイヒールだった。そのためかお茶の水女子大140周年記念キャラクターのモデルに青山千世がなっている。菊栄の父は色々な事業を起業しては失敗し、多額の借金を抱える。家庭は貧困に窮し、高利貸しが頻繁に家へ押しかける。その高利貸しの応対をして追っ払ったのが菊栄の姉だった。

菊栄は府立第二高等女学校卒業後レベルの高い教育を受けるため、様々な教育機関を訪れる。当時の女子教育は賢母良妻を目的したものばかりで、多くの入学者も結婚までの暇つぶし的な感覚だった。菊栄はそのような教育には満足せず個人教授なども受け、最終的には女子英学塾を卒業する。翻訳などで家計を助けながら、堺利彦や大杉栄が主催する講演会へ参加していた。平民講演会で山川均と知り合い結婚する。

「大正にはいってから」が本書で一番面白く読めた章。社会主義運動やアナキズム、共産主義など分派統合を繰り返し、組合運動も加わり渾沌としていた。その間に「大逆事件」や「大杉栄・伊藤野枝虐殺事件」等が起こり、社会主義運動冬の時代が訪れ、福本イズムが吹き荒れ、昭和に入ると転向者が相次ぎ、社会主義運動は壊滅状態になる。その中、山川均・菊栄夫妻は共産党には加わらず、労農党を立ち上げ堺利彦や荒畑寒村と共に活動を続けた。山川均・菊栄夫妻はともに結核を患い病弱で、よく敗戦後まで生きながらえたと思う。昭和に入ると、鶉の養殖を始めて、その後は農作物を作り続けた。敗戦後、山川菊栄は初代労働省婦人少年局長に就任する。

 「女は文盲なるをよしとす。・・・和順なるをよしとす」(松平定信)
 といわれて家庭の奴隷として奉仕することしか教えられなかった娘たちが、明治の幕あきと同時に、若い心にどんなに知識にうえて、まだ女には開かれない学問の戸をたたいて歩いたか、わずかに得た知識をどんなに強い感激と熱情とをもって吸収したかを、当然のこととして小学校から大学まで共学でいける今の若い方たちはどうごらんになるでしょうか。
 母の時代よりはだいぶよくなっていたはずの私の時代でも、女の歩く道はいたるところ袋小路で、のびる力をのばされず、くらやみを手さぐりで歩くようなもどかしさ、絶望的ないらだたしさは、学生時代のたのしさ、若い時代のよろこびというものを私に感じさせませんでした。
 明治はいい時代だった、すばらしかったとかいう人もありますが、この本をごらんくださる方には、人類の黄金時代は、過去にはなく、未来にしかありえないこと、それを現実のものとするための闘いの途上、私たちの同志先輩がどんな犠牲をはらい、どんな過ちをおかしたかをいくぶん知って頂けるでしょう。この本は私たち母子二代の思い出話にすぎないのですが、進んでよりよい世の中を作るために社会運動の正しい歴史を学ぶ機縁にもなればしあわせと存じます。

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