「死ぬことと生きること(新装版)」 土門拳

本の話

管理人が高校生の頃、写真集「古寺巡礼」を眺めて、こんな仏像を撮ってみたいと思っていた。当時、「古寺巡礼」は高校生が買えるような値段ではなく、図書館で見ていた。後から廉価版の「古寺巡礼」を購入したが、重厚感がなくちょっとがっかりしたことを憶えている。巨匠という言葉が当てはまる写真家と言えば土門拳がまず思い浮かぶ。その土門拳が65歳のとき初のエッセイ集が本書。本書に収められているエッセイは殆どが1950年代に書かれたものだ。

本書を読んでいると今とは全く違う世界ではないかと思うほどの時代の差を感じる。今いちばん多く写真が撮られているカメラではなくスマホであろう。大量の撮られた写真が毎日毎日SNS上にアップされ、多くの人々に見られている。セルフポートレートを撮影するカメラマンは沢山いる。SNSを通じて、土門流に言えばアマチュアカメラマンが撮影した写真が売れたり、撮影依頼がきたりとプロとアマチュアとの境界が以前ほどはっきりしない。路上で「絶対非演出、絶対スナップ」を実践したら、「盗撮だ!」と言う声があらぬ方向からとんできそうだ。ギャラリーで写真展を行うとき、肖像権をクリアしていることが必須になっている。必然的に人物写真は演出が多くなる。

それでは本書は時代遅れで読む価値がないかと言えば違うと思う。写真を撮るひとには本書を読むと参考になることが沢山ある。土門拳は写真に対して真面目で真摯に向き合い努力している。土門拳は半身不随になっても車椅子に乗り「古寺巡礼」を撮り続け、弟子に担がれながらデモの撮影を行った。写真に対する情熱が凄まじい。このような写真家はもう出てこないと思う。土門拳は11年間意識不明の状態だったが、何を思い続けたのだろう。

 死も生も絶対なのは、それが事実であるからだ。運命というようなメタフィジカルな思考を離れて、それは事実そのものとしての絶対性において、人間の全存在を決定している。それは、死か生かというような決定的な瞬間を定着するだけでなく、日常茶飯のすべてをも、その連鎖の上に成立たせている。真実というものにしても、しょせん、歴史的、社会的に見た事実の連鎖にすぎないだろう。
ぼくが写真においてリアリズムの立場をとるのも、つまり、人間の全存在を決定する事実というものの絶対性に帰依するからである。そしてカメラのメカニズムこそは、事実そのものの鋭敏なレコーダーであり、逆にまた仮借ない嘘発見器でもある。それは自分と他人の生きていることの実証そのものである。もしメタフィジカルな思考そのものを志向するなら、ぼくたちはカメラを捨てて、ペンをとるなり、絵筆をとる方がいい。ぼく自身は、ペンにも絵筆にも託しきれないものを志向して、カメラをとり、そして写真のリアリズムに達したと告白しよう。

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