「内なる辺境・都市への回路」 安部公房

本の話

本書はエッセイ集の「内なる辺境」とインタビュー集の「都市への回路」を1冊にまとめて文庫化したもの。解説はドナルド・キーンと篠田一士。この2冊は学生の頃読んでおり、今回再読だった。「都市への回路」は記憶が蘇ったが、「内なる辺境」の内容は忘れていることのほうが多かった。

「内なる辺境」ではワルシャワ条約機構軍の戦車がプラハに侵攻したチェコ事件が現在進行形で語られいる。社会主義に希望がまだあるかのような記述は時代を感じさせる。プラハはカフカが生まれた街。カフカの小説にはユダヤ的なものと都市的なものに深い結びつきがあると著者は述べている。ヒトラーは農村的信仰を「正統」とみなし、都市的なものをユダヤ的とし「異端」のレッテルを貼り排除しようとした。安部公房の小説はカフカの影響が強く見られる。主人公の無名性や都市を彷徨う様子等々。現在ユダヤ系作家や亡命作家が無視できない影響を世界に与えている。それは都市という内部の辺境から国境を破壊する軍勢が立ち現れようとしているのかもしれないと。

 その戦闘の文学面での最初の兆候が現れたのは、意外に早く、今世紀の最初の頃だった。とぼくは考えている。一九一〇年、トルストイの死とともに、大地信仰の文学は衰退期を迎え、入れ替って、カフカや、プルーストや、ジョイスが、「異端」の籏をひるがえすのだ。だが、いくらぼくでも、そんなことくらいで、国家が死滅すると考えるほど甘くない。文学に出来ることと言えば、せいぜい国家の自家中毒症状を早めてやるくらいのことだ。それでも、手をこまねいているよりはましだろう。せめて、一切の「正統信仰」を拒否し、内なる辺境に向って内的亡命をはかるくらいは、同時代を意識した作家にとっての義務ではあるまいか。
大地をたたえる「祭り」は終わり、しかし新しい広場は、まだ暗い。国境を超えたゲバラは死んだし、国境を失ったベトナム人は戦火に身を焦がしている。だからと言って、絶望するのはまだ早い。都市の広場が暗ければ、国境の闇はさらに深いはずなのだ。越境者に必要なのは何も光ばかりとは限らない。

「都市への回路」は「密会」の出版直後のインタビューだったことや集録されている写真で記憶に残っていたと思う。軍艦島の写真を初めて見たのは著者の写真だったと思う。本の内容と全く関係ない写真が何を意味するのかと当時はあれこれ考えていた。著者の写真好き(カメラ好き)は有名で、確かヤシカのコンタックスを使っていたような気がする。管理人は安部公房の写真から相当影響をうけていると「都市への回路」を読んで感じた。「箱男」や「笑う月」の本文に挿入されている写真が強い印象を残してる。多分、作家の写真は本文とともにあるから印象に残るのかもしれない。ある有名作家の写真展を見たとき、写真だけだと何か物足りない感じがした。

 しかし、僕自身にとって写真はそんなにややこしい問題じゃない。僕は、時間の中で変形してゆく空間、結果だけ求めているときには、ないにも等しいような変形のプロセス、それに非常に関心をもっている。そして、もちろん文学の場合でも同じ関心をもっている。写真というものは、そういう関心にとってはまことに都合のいい道具なんだ。だから、いわゆる芸術写真風なものよりも、僕にとってはむしろ自分の意識しないような瞬間の切り取り、つまりスナップ・ショットが、何よりも重要な行為なんだ。写真のシャッターを押したということによって、不思議にその情景、空間が自分の中に残ってくれるんだな、何故か。だから、写真を何万枚写したか分からないけども、どこで写したかちゃんと憶えている。まあ、これは憶えているのは当り前だといわれればそれきりだけれどね。たとえば、八年くらい前に写したフィルムを持ち出してきて引伸しすると、どこで写したかすぐに思い出すんだ。ところが、町を歩いていて非常に印象に残る場景があっても、それは時間と共に消えていって何も残らない。

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