「原発と放射線被ばくの科学と倫理」 島薗進

本の話

低線量被曝の人体に対する影響については、いまだに明確な結論に至らず論争が続いている。主に原子力発電を推進している立場の専門家は、低線量被曝は「健康に影響はない」と主張し、逆の立場の専門家は「低線量被曝でも健康に影響する」と主張する。福島第一原子力発電所事故後の行政は低線量被曝は健康に影響はないということで対応している。低線量被曝の人体に対する影響についての主なデータは、原爆が投下された広島・長崎、チェルノブイリ事故のものである。「低線量被曝は健康に影響はない」の根拠となっているのが、チェルノブイリ事故後に旧ソ連で調査に当たったレオニード・イリーンの主張で、その著作「チェルノブイリ:虚偽と真実」が典拠になっている。チェルノブイリ事故後の専門家調査には日本人も参加しており、彼等は福島第一原子力発電所事故後の放射線被曝健康影響政策において中心メンバーになっている。

本書で著者が何度も言及しているのは、低線量被曝の人体に対する影響はハッキリしないのになぜ専門家は「安心」・「安全」と断言するのか。福島県では低線量被曝そのものよりもその精神的な影響のほうが健康問題として重点を置かれているようだ。そこには住民の意見が反映されているというより、政府・行政の思惑が優先されているように見える。住民を避難させ、除染や予防対策するコストを考えた場合、健康被害が起きるかどうか分からないものにお金をかけられない。10万人に0.1人発病する甲状腺ガンが10万人に100人となっても、その100人を救うために多額の費用をかけられるのか。その費用を「復興」に使うほうが優先されるというのが政府・行政の姿勢である。「復興」とは道路が開通し、橋が架け替えられて、鉄道が復旧し、住宅が建て替えらる等のインフラ整備という意味である。

同じ立場の専門家が集まり、自分たちの立場に都合が良いデータだけを取り出してその正当性を主張する。水俣病でも専門家が水俣病とチッソとは無関係という主張をしていた。専門家がいっていることは正しいので素人は黙っていろ。利益誘導のため専門家が明らかに加担しているのになぜその倫理性を問われないのか。本書の最後に、武谷三男と唐木順三の論争が取り上げられている。当時、管理人は唐木順三の「科学者の社会的責任」を読んで違和感があった。残念ながら唐木順三は物理学の専門知識が足りなく、言及しているのは著名な物理学者が書いた一般向けの本ばかりだった。朝永はいいけど湯川はダメだというのは「中間子論」や「くり込み理論」の比較ではなく、物理至上主義者かどうかの判定だった。その中で特に批判されたのが武谷三男だった。なぜ物理学者だけに「社会的責任」を押し付けるのか。戦前戦争に協力した文学者や哲学者はおおぜいいたのに、まして京都学派を後方支援していた唐木順三がなぜ物理学者の「社会的責任」だけ批判するのか。本書では論争となっているが、管理人の感じでは全く噛み合わないものだった。

本書を読んでいて驚いたのは付録にある著名なヘーゲル研究者の論文だった。「低線量被曝と生命倫理」シンポジウムでの対論で「国民的な決定に関して、専門家が対立した意見を示したとき、非専門家である国民は、何らかの形で、自分に判断可能な別件に従って専門家を評価せざるを得ない。通常は人物の徳性に従って評価する」と述べている。そのため、個人的に面識があり、徳性を示している山下俊一の説「低線量被曝は無害」をその哲学者は支持する。「人物の徳性に従って評価する」なら科学的なデータも意味がない。宗教学者と哲学者が低線量被曝に関して論争しても記録に値しないとも述べているが、なぜシンポジウムに参加したのか。結局「素人は黙っていろ」なのだろう。

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