「東海道ふたり旅」 池内紀

本の話

ふたり旅は広重の「東海道五十三次」と共に東海道を見直す旅といったところ。各章に広重の「東海道五十三次」がカラーと白黒で掲載されている。「ふたり」にはべつの意味をこめているとあとがきにあったが、「べつの意味」がよく分からなかった。取材をふたりで行ったという意味なのか、新旧の東海道という意味なのか、今と昔という意味なのか判然としない。

旧東海道は幹線道路としての役割を終え、市街地に隠れてしまっているところが多い。特に太平洋戦争で大空襲を受けたところは古い町並みがなくなっている。また、高度経済成長期に旧宿場町は取り壊され、東海道五十三の宿駅で、町並みがそっくり保存されているのは関宿だけ。古い町並みを保存しようという考えが起こった時にはもう町並みが無くなっていた。

広重は天保三年、幕府の御馬進献に随行して、東海道を京へ上る旅をした。その時のスケッチに基づいて「東海道五十三次」を刊行した。一介の浮世絵師がなぜ幕府の宮中に対する重要行事に随行できたのか理由ははっきりしない。広重はこの旅で役人の出張や大名行列がどのようなものか内部からしることができた。「東海道五十三次」に描かれている人物をよく見るとそのことがよく分かると著者は述べている。本書に掲載されている図版は小さいので見づらいけれど。

参勤交代の大名行列という奇妙な制度は、各藩にとって莫大な費用がかかる「百害あって一利なし」だった。幕末期に大名行列は形骸化し、経費削減を優先してなりふり構わない藩が増えた。藩よりもお金を持っている大商人があちこちに現れ、武士のほうが借金で首が回らなくなるという身分制度の矛盾が露呈する。幕末期、農民の一揆や強訴が急増するのも藩財政の破綻が農民への負担増を招いた結果だった。幕藩制度が崩壊するのも時間の問題だった。

 広重が東海道を上ったのは、幕藩体制が音を立てて崩れかけていたところである。藩によっては恥も外聞も捨て、本陣を避けて寺や旅籠を利用してすませるところもあった。あるいは昼夜兼行で帰国を急いだり、途中で足が出て、幕府に金策を求めるケースもあった。必ずや噂ばなしになり、尾ひれをつけて語られていたと思われる。
もともと大名行列は奇妙なものだった。行列に音楽がつけ加わるのは、維新後の政府軍が採用した軍楽隊以後であって、それまでは無言のままの行進である。さらに大名行列にはこまかい規則があって、賭博、勝負事はもとより、喧嘩、口論、泥酔厳禁、煙草までも禁じられていた。きらびやかないで立ちのわりには、ただ芸もなく疲れた足どりで黙々と通過していく集団だった。
広重は街道の特性に敬意を表して、出だしの日本橋・品川宿を大名行列で飾ったが、以後は思いきり視野をひろげた遠景のフォーカスにした。そうでなければ、急坂や雪や雨に往き悩む情景をシーンに仕立てた。
そこには特有の雰囲気がある。押し黙った集団には、いかなる言葉もなく、ただ黙々と進んでいく。疲労が色濃いのは、強行軍の長旅以上に、経費だけ費やす無意味なしきたりそのものへの徒労感を思わせる。

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