「何が私をこうさせたか」 金子文子

本書は金子文子が獄中で書いた自伝。自伝的手記を書き始めたのは予審判事に「過去の経歴について何か書いてみせろ」と言われたのがきっかけだった。1926年7月に自死した金子文子は、この原稿を不逞社の仲間である栗原一男に渡していた。栗原は1931年7月に春秋社から「何が私をこうさせたか」を出版した。この手記は、朴烈と同棲するところで終わっている。その後については、裁判が刑法七三条案件ということもあり書けなかった。本書を読んでいるとドストエフスキーの小説を読んでいるような感じがした。

金子文子は横浜で生まれた。父佐伯文一は母金子きくのと夫婦であったが籍を入れていなかった。文子が生まれても籍に入れなかったので、文子は無籍者のままだった。文一はきくのの妹たかのと関係を持ち、きくのと文子は家をでる。母親は男に頼らなければ生きていけない女性だったようで、男と暮らしては別れるを繰り返した。その後文子と母は母の実家に戻った。母が雑貨屋に後妻として嫁いだとき文子は母の実家に残された。朝鮮にいる叔父夫婦に子供がなかったため、文子を養女として引き取った。文子は無籍者だったので、祖母の第五女として朝鮮に渡った。朝鮮での生活は祖母のいじめが酷く、文子は自殺しようしたこともあった。叔父夫婦が別の子供を世継ぎとしたため、文子は用なしとなり母の実家に7年ぶりに戻った。

文子は父親との関係が酷く、年長になるほど憎しみが増していった感じだ。朝鮮での暮らしで虐げられる朝鮮人にたいする同情が生まれ後の運動に影響している。父親のと関係が最悪になり、文子は上京する。この時、文子は17歳だった。上京した直後は大叔父の家に転がり込む。次に文子は新聞販売店で住み込みで働く。昼間学校へ通い、夜街頭で夕刊を売る。寝る暇がなく、学校でも居眠りすることが多くなり新聞販売店を辞め、露店商を始める。露店商も上手くいかず、女中奉公にでるが結局文子は大叔父の家に戻る。この頃社会主義者と知り合い、彼らが配布していた冊子等で社会主義思想を知る。文子は読みたい本を買う事もままならないほど貧困に喘いでいた。玄という朝鮮人と同居することを決めたが、玄はドイツへ留学してしまう。

文子は大叔父の家を再び出て小料理屋で働く。この頃、たまたま友人宅で月刊雑誌の校正刷りを読み、そこに掲載されていた詩に強い感動を覚える。この詩を書いたのが朴烈だった。文子は「そうだ、私の探しているもの、私のしたがっている仕事、それはたしかに彼の中に在る。彼こそ私の探しているものだ。彼こそ私の仕事を持っている」と確信する。この頃、文子は社会主義思想からニヒリズム思想に傾いていた。社会主義や宗教では個人は救済されないと考えていた。文子は友人を通じて朴烈と何とか会おうとする。やっと朴烈と会えた文子は自分から求婚する。なぜこれほど文子が朴烈に惹かれたのかは本書を読んでも管理人にはよく分からなかった。金子文子が極貧生活の中で唯一の光を見いだしたのは幸せだったのかも知れない。

 実際私はこの頃、それを考えているのだった。一切の望み燃えた私は、苦学をして偉い人間になるのを唯一の目標としていた。が、私は今、はっきりとわかった。今の世では、苦学なんかして偉い人間になれるはずはないということを。いや、そればかりではない。いうところの偉い人間なんてほどくだらないものはないということを。人々から偉いといわれることに何の値打ちがあろう。私は人のために生きているのではない。私は私自身の真の満足と自由とを得なければならないのではないか。私は私自身でなければならぬ。
 私はあまりに多く他人の奴隷となりすぎてきた。余りにも多くの男のおもちゃにされてきた。私は私自身を生きていなかった。
 私は私自身の仕事をしなければならぬ。そうだ、私自身の仕事をだ。しかし、その私自身の仕事とは何であるか。私はそれを知りたい。知ってそれを実行してみたい。

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