「MINAMATA NOTE 1971~2012」 石川武志

本の話

石川武志さんに初めて会ったのはポートフォリオメーカーのイベントだった。その時、石川さんにはインドの写真を見せてもらった。最後に名刺を頂いたとき、ユージンス・ミスの助手をしていたかただったと気がついて冷や汗がでる思いだった。と書いていて、「水俣ノート」写真展のオープニングイベントに出席したことを思い出した。なのに写真集を買ったかどうかの記憶が曖昧。ちょうど札幌へ引っ越す間際だったので本書を買いそびれたのか。文章を読んでいても読んだ記憶がない。本を二度買いしたときは、読んでいて途中で気づくのだが。「苦海浄土」と一緒に本書を購入した時にはそんなことはすっかり忘れていた。

偶然の出会いから石川さんはユージン・スミスの仕事を手伝うことになり、水俣ではアシスタントとして働くことになる。本書では石川さんがユージン・スミスのアシスタントをしていた頃の写真と現在の水俣の写真が併録されている。表紙は1972年に撮影された母親に抱かれた諫山孝子さん。現在の写真を見ると水俣病は治癒しない病というのを実感する。ユージン・スミスが撮影した有名な「入浴する智子と母」はご両親が「亡き智子をゆっくり休ませたい」と申し出で、1998年「今後一般に公開しない」となった。

ユージン・スミスは第二次世界大戦の従軍記者時代に沖縄で負傷し砲弾の破片が首の近くに残っていた。この時、口の中も負傷し固いものが殆ど食べられなかった。水俣にいるときユージン・スミスはピーナッツバターをつけた食パンを食べと牛乳を大量に飲んだ。そしてサントリーレッドの640mlボトルを毎日飲んだ。日本製の引き伸し機は使わずライツを使っていた。完全主義者と呼ばれていたユージン・スミスのプリントに対する執念は凄まじいものがあった。五井事件で負傷してからは、身体に無理がきかなくなりアメリカに帰国する。管理人が最初に使った一眼レフは水俣にいた頃ユージン・スミスが使っていたミノルタSRT101。

 水俣病の写真といえば、手足が曲がり、言葉も喋れず、歩くこともままなない患者の姿をすぐ想像してしまうだろう。それは写真家にも責任の一端がある。メディアは、水俣病は悲惨であり、悲惨でなければ水俣病ではないという狭隘なイメージを作り出し、事態の本質を見えにくくしてしまったのではないか・・・。
 狭義の水俣病のイメージにとどまらない。劇症の患者が凄惨を極めたため、多くの患者が未認定となって置き去りにされた。そしていまだに繰り返される裁判と和解・・・。
 地元の人の会話にそっと耳を傾ければ、40年前も今も同じことを言っている。以前は患者同士で訴訟派と一任派に分かれて悪口をいいあっていた。訴訟派の誰の家には補償金がいくら入ったとか、どこの患者の家が新しく家を新築したとか、妬みや嫉みが渦巻いていた。
 患者が割れれば支援者も割れる。チッソの労働組合のなかにも様々な考え方の対立があった。小学校でも中学校でも、水俣病の家族がいる家庭でもあればチッソに勤める家族のいる家庭もある。水俣病の子供が鉛筆1本買えば、チッソに勤める家の子は「よかね、補償金ばいっぱい入って」と意地悪をいう。
 そうかと思えば、水俣病に差別的な目を向けていた人たちが、周囲が認定申請をして補償金をてにした途端、急に腰が痛いだの足が痺れるだのと言いはじめ・・・。などなど、数え上げれば切りが無い。一見のどかな水俣だが、人の絆は引き裂かれ、人情はぎしぎしと悲鳴を上げていた。

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