「新版 死を想う」 石牟礼道子・伊藤比呂美

本の話

今「苦海浄土三部作」を読んでいる。さすがに電車のなかで読む本として「苦海浄土三部作」を持って行けないので、新書とか文庫本を持ち歩いている。そんなところで、「新版 死を想う」を読み終えた。本書は2007年に出版された「死を想う」に「満ち潮」と「詩的代理母のような人」の章を追加して新版としたもの。三時間ずつで三日という対談。本年2月に石牟礼道子さんが亡くなったための新版だ

伊藤比呂美さんが「死とはどういうものかについて人にはなかなか聞けない、でも石牟礼さんなら」と考え熊本まで出向く。第一章は戦争中の話、第二章は印象に残っている死について、残りの章は「梁塵秘抄」を中心にした話が語られる。「死」そのものについて語ることは生きているものにとって困難である。死についてというよりは、死に向かってどのように生きるかということが問題となっている。「死とはどういうものかについて」の回答については結局自分が死ななきゃわからないといったところか。死んだら「死について」分かるかどうか分からない。

 石牟礼さんのお仕事は、おもしろくて目が離せない。不自由だからなかなか書けませんとおっしゃっていたが、それでもつぎつぎに発表される。戦乱も死病もないままに、なんとなく死の淵をのぞきこんでいるみたいなおだやかな、ゆるやかな、老いの果てに、こんなにすばらしいものがつぎつぎに書けるのなら、老いも死も、捨てたもんじゃないと思う。
病院で寝たきりの母は、娑婆にいたときは、ストレスをためやすい性格で、完璧主義で、娘に対しては支配的で・・・けっしてつきあいやすい母じゃなかったが、寝たきりになって、はじめて人生の苦労から解放されたみたいにリラックスしている。熊本に帰ると母の枕元に座って話すのが楽しい。もう話す内容もかぎられている。家族のこと、昔のこと、テレビのこと。それでも、はじめてこんなにリラックスした人格の母と向き合えたような気がして、話すのが楽しい。
この対談のおかげで、そう感じられるようになったような気がします、とほとけに手をあわせるような気持ちで石牟礼さんに話した(電話口だった)。
まあ、と電話のむこうで小さな声があがった。

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